展示場所:
本館1F GRAND PATIO
展示期間:
2025年7月1日〜10月31日
コーディネーター高須咲恵さんが、毎回1人、国内外の注目アーティストをピックアップし、そのアーティストへのインタビューとともに作品を紹介する企画です。今回は特別企画として、アーティストの森千裕さんと、美術評論家の中尾拓哉さんによる対談をお届けします。日常の断片を独自の視点で再構築する作品で知られる森さんの創作と想い、そして中尾さんが森さんの作品をどのように感じているのか、森さんのアトリエでお話を伺いました。
粉末予想
Powder Prediction
(部分)2013
粉末予想
Powder Prediction
(部分)2013
展示場所:本館1F GRAND PATIO
展示期間:2025年7月1日〜
10月31日
コーディネーター高須咲恵さんが、毎回1人、国内外の注目アーティストをピックアップし、そのアーティストへのインタビューとともに作品を紹介する企画です。今回は特別企画として、アーティストの森千裕さんと、美術評論家の中尾拓哉さんによる対談をお届けします。日常の断片を独自の視点で再構築する作品で知られる森さんの創作と想い、そして中尾さんが森さんの作品をどのように感じているのか、森さんのアトリエでお話を伺いました。
中尾 栃木県の那須高原にある、ギャラリーや美術館を備えた温泉旅館に、共通の知り合い数名と友人の展示を一緒に観に行ったときが最初です。私が美術評論家として活動を開始した2016年ごろでしたね。
森 車中手持ち無沙汰だったのか、私が作品にもしている「たぬきまんじゅう」という自前のちょっとエキセントリックなエピソードを話したんです。東京都現代美術館からの依頼で東京の小、中学校で美術の授業を行ったときにも聞かせたことのある話なんですけど。話し終わるとみんな呆気に取られている感じだったので「ヨシ」と思っていたら、中尾くんが「では私も……」という感じでおもむろに「すずめばち」のエピソードを話し始めました。その話がアクロバティックな展開を繰り返しながら、ヌクレオソーム鎖による多重らせん構造のように延々と続き、私のたぬきまんじゅうの話が越えられてしまい、驚いた記憶があります。私には絶対にできない話の展開の仕方だったので「さすが言葉や思考を操る職業の人だな」と感服させられました。子どものころから不思議な場面に遭遇することが多く、珍エピソードには少しばかり自信があったので、悔しさと憧れが入り混じったような気持ちになり、出会ったことのないタイプの人だなとそこで深く印象づけられました。
中尾 確か当時、自宅玄関の真ん前にすずめばちの巣ができていることに突然気がついたんです。それが商売繁盛の縁起物であることと、私はマルセル・デュシャンという芸術家の研究をしていて、そのころ本を書いていたのですが、この芸術家の作品に「花嫁」というイメージがあって、それが「すずめばち」と呼ばれていることなどを織り交ぜながら話した記憶があります。楽しかったですね。同じ年に、森さんが個展「テニス肘」を開催され、その展示を雑誌『美術手帖』でレビューさせていただきました。森さんの作品は、まさにご自身の記憶や経験を軸に、一見すると無関係に見えるさまざまな要素を絡めてつなげ、作品にする手法が印象的でした。
4~5才のころに描いたアクロバットの絵。
森 物心ついたときからとにかく絵を描くのが好きで、世間で見聞きしたことを紙に鉛筆で描いていました。当時の絵を母がトランクルームに保管していたのですが、描いているときの感覚や記憶が鮮明にあるんですね。4歳ごろには1枚描くたびに家族に感想を求めていました。すでに人に見せる前提で、まだ発表の場もないのに発表する意識があり、とても自覚的に確信を持って描いていたことを覚えています。高校入学と同時に小学生のころから長く続けていたバスケットボールをキッパリと諦め、放課後は画塾で木炭デッサンを始めました。しかし、高校1年生から大学2年生くらいまで、かなりの長期間、与えられたことをやり続けていることが苦痛になり我慢の限界がきていました。
そして長いデッサンの訓練の間に失った、元来の自由奔放な考えや描き方を取り戻すことを強く心に決め一念発起したんです。どうすればそれを取り戻せるのか考え続け、記憶にあった幼少期の絵を実際に手に取って観てみることを思いつきました。そこで母にお願いして一緒に掘り出してきたんです。久々に見た幼い自分の絵は、記憶の通りだったことも驚きでしたが、自分が失った、迫り来るような自由で迷いのない絵がとても新鮮で、目が覚める思いでした。これをきっかけに長い鼻風邪を引いていたようなボンヤリとした世界から覚醒して制作に集中しました。相変わらず、制作をしているとき以外はぬかるみを踏むような感触なのですが……。
中尾 森さんの作品は、鮮やかな色彩が印象に強く残ることが多いけれども、幼少期の作品は線だけで構成されていて、モノクロームのものばかりなんですね。数枚は色鉛筆やクレヨンで描かれていてもよさそうですが。そこが非常に興味深いです。森さんの絵は色よりも線からきているのかも。
幼稚園のころ、同じ学年の子どもたちが「女の子の描き方を教えてほしい」とよく教室の外まで行列になっていたので、誰もが簡単に描ける方法はないかと考え、クエスチョンマークと言葉を使って人物の顔を簡単に描く方法を思いつき、幼稚園で人生初の「ワークショップ」を開催した。
森 さすがですね、そうなんです! 子どものころ、絵の具やクレヨンなどの色の画材は上手くあつかえなくて苦手でした。でも、なぜか鉛筆だけが手にピタッとフィットして自分の描きたいものを鮮明に、1ミリのズレもなしに描くことができたんです。それと、色の絵の具は苦手だったのに、幼稚園の書道の時間は大好きで、墨を硯で磨るときの感触や匂いの、不思議と落ち着く感覚が忘れられず、小学校入学から高校まで10年間ほど書道と硬筆を習いました。美大にも、雪舟のような水墨画家や、北斎のような画家を目指して入りましたし、もともと鉛筆や墨で描く線がとても好きなんだと思います。水墨画は墨の濃淡だけで色や奥行きを表現するのがとても難しいのですが、子どものころ、鉛筆1本、灰色だけのトーンで色を表現することを自然にやっていました。
現在の私の制作にはいろいろなタイプの作品や、絵だけをとってもいくつかのシリーズがあるので伝わりにくいかも知れませんが、自分は線に異常なまでのこだわりがあり、実は一番の核は「線」なんです。そのことに気づいてもらえるのはうれしいです! 子どものころの絵を見てそれに気づいた人は初めてなので「なるほど!」という感じです。中尾さんの鋭さを再確認しました。
子どものころは絵を描くことも大好きでしたが、それと同じくらい運動も好きでした。おままごとやお人形遊び、お花編みなどのいわゆる“女の子の遊び”をどうしてもできないので、同性の友達との関係につまずくこともありました。日が暮れるまで走ったり、手のひらやスカートが破れるまで鉄棒で回転し続けたりして、家に帰れば鉛筆を削って白い紙に向かっていました。
水泳選手を目指して何年か競泳の訓練をしていたのですが、ある日、金メダリストのマット・ビオンディがやってきて、選手コースの子ども一人ずつと一緒に泳いでくれたんです。彼がひとかきするだけで大きな波が起こり、それに乗っているだけで気づいたら向こう岸にゴールしていました。そのときの驚きと、鯨の隣で泳ぐようなダイナミックで気持ちのよい感覚を今でも覚えています。そのころに自分にはオリンピック選手を目指していくような体力と、絵や他のスポーツやたくさんの習い事などすべての中から水泳一本に絞る気持ちがまだないことに気づきました。
学校生活で一番楽しみだった運動会や体育大会も大人になるとなくなり、運動能力を発揮できる場を失い、エネルギーを発散できず悶々とする日々でした。そこで私に残っている、風を切って走ったり跳んだりする気持ちのよい身体感覚を、本格的に制作を始めたときに絵を描く感覚とつなげることに決めました。そして修行の感覚で精神集中を繰り返し、幼少期の感覚と同様、意図的に統合することに成功して、そこからは水を得た魚のように制作に集中できるようになり、今に至ります。
中尾 森さんがスポーツをモチーフに制作をしていることが、どこから来ているかがよく分かりました。ドローイングで線を引く運動と、身体を動かすことの気持ちよさが、そのまま作品の中に流れ込んでいるように見えます。アメリカンフットボールのヘルメットを使った『ヘルメットフリーザー』のように、直接的にスポーツをモチーフにした作品もありますよね。
森 スポーツのモチーフは、スポーツを通して見た社会のルールへの違和感や、不条理さが 出発点になっています。ちなみにヘルメットの第1作目はスポーツのヘルメットではなく、桂川にうち捨てられていた真っ赤なバイクのヘルメットだったんです。私の制作は常に両義的で、社会への違和感やしきたりへの拒絶感など、健全さの裏にある不条理さからくるのだと思います。
中尾くんが書いてくれたレビューにも登場した、『ヘルメットフリーザー』がちょうど今、豊田市美術館の「在/不在の肖像」というコレクション展で展示されています(6月21日〜9月15日まで)。
あと単純に、物心ついたころから絵を描く人間の性かもしれませんが、選手たちの体のアウトラインとか形とかがたまらなく好きで、癖で目でトレースしてしまうんです。ピターッと決まったときなどはアウトラインが光ってロゴのように見えてしまう。「スター」と呼ばれる人などもそうですが、社会を象徴するエンブレムやマークのように見える瞬間があるんです。
ヘルメットフリーザー
Helmet-freezer
2016
豊田市美術館蔵
collection of Toyota Municipal Museum of Art
森 音楽、映画、昭和に観たテレビ、漫画、アニメなどに強い影響を受けています。具体的な例をあげると、デイヴィッド・リンチ、大友克洋、大林宣彦、アキ・カウリスマキ、ジム・ジャームッシュ、小津安二郎、庵野秀明、安部公房、服部一成さん、吉田戦車、手塚治虫、エイフェックス・ツイン、∈Y∋(山塚アイ)さん、そして向井秀徳さん。それからフィッシュリ&ヴァイスや、いつも私の制作の話を熱心に聞いてくださった大学時代の恩師の今村源先生です。
最初の記憶は小学校2年生のころ、大阪時代のダウンタウンの、尖っているのにどこかのんびりとしたテンポの漫才に衝撃を受け、初めて自分以外の何かに夢中になる、興味が芽生える経験をしました。関西で旋風を巻き起こした『4時ですよ〜だ』は小学校からスライディングで帰ってきて、ランドセルを背負ったままテレビにくっついて貪りつくように正座で観ていました。母が言うには、私は3歳まで口をきかなかったらしく、いよいよ病院で診てもらった方がいいのではないかというときに初めて口を開いたらしいのですが、単語ではなく、いきなり文章だったので驚いたそうです。
静かに観察ばかりしているニヒルな子どもでしたが、その番組を観て何かが破裂するみたいに声を出して笑う経験を初めてしたときに、自分の中で何かが変わり始めたと感じたことをいまだに覚えています。ダウンタウンの破竹の勢いを画面越しに浴び、自分が大阪で生まれ育ったことが誇らしく思えていました。ダウンタウンが東京に進出するときは泣いてしまい、『ガキの使いやあらへんで!』が始まった当初、大阪では放映がなく、今のようにインターネットもなかったし、ダウンタウンの新しい展開が観られず、ヤキモキし、何年もずいぶん悔しい思いをしました。
ダウンタウンを始め、吉田戦車や、ヤン・シュヴァンクマイエルなどを代表とする1980〜90年代当時、「シュール」「ナンセンス」「不条理」などと呼ばれる種類の優れた作品がたくさんありましたよね。既存の制度や権威を疑ったり、崩したり、整っているものを台無しにしてしまう作品が同時多発的に登場してきて、「窮屈なルールだらけの社会の、既存の概念を覆してもいいんだ!」といつも居心地の悪さのようなものを感じていた私は勇気をもらい、とてもワクワクしました。
中尾 「台無しにする」という言葉が腑に落ちました。たとえば、森さんが自身で細密に描いた具象的なイメージに、ビーッと上から線を引いてしまっているような作品などはそういう感覚があるのだなと。さらに、ヘルメットの中が冷凍庫になっていたり、果物や骨などいろいろなものが詰め込まれていたりするのもいい意味で「台無し」になっているように見えてきます。
森さんの作品は、ご自身が精力的に歩き回って拾い集めたものを、偶然の出来事とともに再構築していくスタイルが特徴の1つですよね。それは私たちが少女漫画のキャラクターやスポーツ選手を見ることとは少し異なっていて、一見すると無関係なそれらのイメージはA→B→Cと直線的に出来事の因果で結ばれていくのではなく、森さんの記憶の中で、AからZ、あるいは1から全然違う数字といった組み合わせで言葉とイメージが並走しながら、ずっとつながっていく流れになっているのだと感じます。そして、それらは突如として絵画の中に現れてくる。
「テニス肘」のレビューには、森さんの作品鑑賞は「あることに気を取られているあいだにも、絶えず別のことが進行している」、そういった感覚だと書きました。今日お話をしていて、森さんが集められた出来事が絵画の中に現れ、再構築されていく作業とともに、さらに再構築されたものそれ自体を「台無しにする」というレイヤーがあるのだと知り、森さんの作品がまた違った角度で見えてきました。ルールからはみ出して、別のルールに向かって散らばっていく感覚、それが「台無しにする」ということなのかもしれません。
森 社会現象にもなった吉田戦車の代表作『伝染(うつ)るんです』に、「さて、久しぶりに取り返しのつかないことでもするか」と言って何かの巨匠か教授のような風貌の人が、精密機器によく混ぜた納豆を流し込む4コマがあるんです。これを3つ年上の兄から借りて読んだときは私はまだ小学校高学年だったので、世の中にどんな職業があるかは詳細には分かっていませんでした。それでも「私も何かは分からないが、台無しにしてもいいんだ!と提示するようなものを作る職業に就こう!」と心に決めました。それがそのまま今につながっているという感じです。
それから高校生のころには、服部一成さんの存在をキューピーハーフの広告や、雑誌の『流行通信』などで知り、爽やかかつ広い感じがして、なんて「カッコイイのだろう!」と憧れ始めました。同時期にエイフェックス・ツインの登場にも衝撃を受け、周りの友人たちの影響もあり、電子音楽が好きになり、聴くようになりました。そのころに当時のヤマタカEYEさんやボアダムスの存在を知り、得体の知れないパワーに惹きつけられたんです。RAINBOW 2000、VITAMINQ、METAMORPHOSEやSATURNなどのレイヴやフェスにも若いエネルギーを利用して精力的に出かけ、ボアダムスのライブもたくさん観ることができました。
浪人生のころ、蛍光灯の下、みんなで競いながらカリカリとかシャッシャッとかいう音だけが響く中でデッサンをする緊迫した空気が、自分が自由に描いてきた絵に対する感覚とかけ離れていると感じて異様な光景に見え、ある日突然体が拒絶反応を起こしてしまい、浪人仲間の友人たちが心配して迎えに来てくれても行けなくなってしまいました。描けば描くほど自分を見失い、毎日のように絵で競い続けることが辛くなり、そして下手になっていくのを感じて、絵のことで初めて嫌な焦りを感じたんです。そこで、浪人仲間たちには危険だと止められましたが、画塾に通うのをあっさりと辞めてしまったんですよね。
豊田市美術館で2017年に開催した個展『omoide in my head』のポスター。デザインは服部一成さん。
そこからは毎週末、すでに一般大学の大学生になっていた音楽仲間の友人たちとアメ村へ繰り出し、レコードショップをブラブラと何軒もハシゴして巡り、そのまま難波ロケッツになだれ込み、お酒も飲めないのに朝まで音楽を聴いて過ごしました。無限に思える体力があり、今振り返れば青春だったなと思える時期でした。大阪の南港にあったベイサイドジェニーというライブハウスでは、エイフェックス・ツインが、極度の恥ずかしがり屋なので、DJブースに隠れながら手だけ出してDJをしているのも目撃することができました。
「自分取り戻し作戦」を取った判断はどうやら英断だったようで、そこから半年間受験当日までは、学校のテスト前によく勉強を教わっていた兄から「センターは傾向のみ。」と言ってどっさりと渡された赤本は全部解いたけど、絵は気が向いたときに1〜2枚描いたくらいでしたが、本番はニコニコしながら楽しんで描くことができ、デッサンは満点でようやく中学生のころから目指していた京都市立芸術大学に入ることができました。
そしてロックというものにはまだあまり興味が芽生えていなかったのですが、台風で2日目が中止になった、伝説の第1回目のフジロックフェスティバルに行ったという人から、98年の第2回目に誘われたので、若さの勢いにまかせて行ってみました。そこでいきなり予備知識なしに観たソニック・ユースやイギー・ポップなど、ロックの破壊的な爆音に驚いてしまいました。サーストン・ムーアとキム・ゴードンがギターやベース、アンプを破壊し、長いノイズ音がただ響き続けるのを聴いたときは、ブルドーザーで胸の中のスペースをガーッと無理やりに広げられたような爽快な感覚がして、その新しくできた空き地でたまらなく何かを作りたいという衝動に駆られたことを覚えています。頭の中で、大学で観た中原浩大先生の作品に衝撃を受け胸のスペースが広がったときの感覚となぜかオーバーラップし、日本画家を目指して大学で修行中でしたが日本画専攻を離れ、より自由な現代美術の道に進もうと決めました。
その流れで1999年に、北海道のライジング・サンでNUMBER GIRLのライブを初めて見たのですが、それまで存在すら知らなかったんです。でも、心臓を強打されるようなドラムの1音目を聴いた瞬間から一瞬ですべてが大好きになり、『透明少女』のCDを手に入れました。そのあまりのうれしさに、感覚が似ていて、よく制作の話なども聞いてくれていた兄にも聴いてもらいました。そのとき兄から「この世界観が好きなら、これも好きだろうから、君はこれを読んでみたまえ」と渡されたのが安部公房の『壁』『カンガルー・ノート』『箱男』でした。NUMBER GIRLの曲に感じるのと同じように、まるで自分の幼少期からの感覚を文字にされたような感動があり、体にスイスイと入ってきました。このことは制作にとても影響があると思います。
それからはライブに通い詰めるようになりました。曲や歌詞、絵などすべてを向井秀徳さんが作られているということにたどりつき、「自分の絵を、同時代にバリバリと精力的に活動されていて、感覚が似ていると感じる向井さんに見てもらって感想をどうしても聞いてみたい!」と思い始めたんです。そしてホームページから絵を送ったところ、向井さんから「気色悪い。それは良いことだ。」という感想を聞くことに成功しました。
それでも、画像ではなく実際に手に取って見てもらいたいという思いが湧いて止められなくなり、どこへ送ればいいか分からずホームページに問い合わせたんですよ。その1週間後、もう返信は来ないかと諦めかけていたら、なんとホームページが更新され「感想画募集」と送り先が書かれているのが目に飛び込んできたんです。偶然のタイミングだった可能性もありますが、これは今でも続く、向井さん特有の突然の「粋な計らい」シリーズの1発目だったと思えるような感動的な出来事でした!
私は真剣な思いが通じたのかもしれないと思い、木箱にたくさん絵を詰めて送りました。そして次にホームページが更新されたとき、「感想画大賞 森千裕さんに決定」と書かれているのを発見したんです! 賞があるとは思いませんでしたが、結果的に絵で賞を取ったのは人生初のことでした。それからは制作活動と並行して向井さんにアプローチすることも続けていこうと心に決めました。
その後に経堂で行われた向井さんの『我々は外野である』という少人数のトークイベントの際に、手作りの『森ブック①、②』という2冊の本も持って行き、向井さんに見てもらったところ「姪っ子の絵!!」という感想をいただくこともできました。
中尾 今、森さんのお話をずっと聞いていて思ったのですが、やっぱり記憶から記憶へと歩き回っていくような感じがするんですよね。偶然の出来事を含め、ひとつひとつがとても重要で、すばらしいエピソードです。でも「感想画募集」という企画は、タイミング的にも偶然ではないように思えますね。どんな絵を送ったんですか?
森 子どものときに描いた絵から、当時描いていた絵までいろいろです。賞をいただいた、幼少期のパンにかじりつく人の絵を、記念碑的に2010年に出版した自分の作品集『都会のアルバム 森ブック③』の表紙にしました。この本の帯文を、向井さんが書いてくださったんです。2017年に豊田市美術館で開催した個展のタイトルは、向井さんにご連絡して許可をいただき、NUMBER GIRLの代表曲の曲名を引用して「omoide in my head」にしました。そして、その展覧会カタログはなんと高校生から憧れていた服部一成さんにデザインをお願いできたのです! 高校生のころからの夢が1つ叶った気持ちでした。
それからなんとうれしいことに、今話しているこのスタジオのロゴを服部さんが作ってくださったんです……! 実はこのスタジオの名前は「THE MOISTURE STUDIO」というのですが、ここに来る前は6年ほど京都で制作していて、「MOISTURE STUDIO」という名前を制作場所に初めてつけて自分では呼んでいたのですが、なかなか浸透せず、呼んでもらえたことがありませんでした。そのころからロゴを作って、色んなところで使いたいなと思い始めたんですよね。
今回この出来立てのロゴが届いたので、いろんな場面で使いたいです。スタジオにさらなる愛着が湧いてくるんじゃないかと思います!
「omoide in my head」カタログ
「omoide in my head」の個展を開催してから数年後、驚くことに2020年にNUMBER GIRLが再結成し、信じられないことですが再結成ツアー『我々は逆噴射である』のビジュアルを私が担当させていただいたんです!
向井さんからそれについての説明はありませんでしたが『我々は外野である』というイベントで、向井さんに絵を直接観ていただいたという大きな思い出があった私は、これは「粋な計らい」シリーズではないかと捉え、喜びを噛み締めました。
中尾 すごいストーリーですね。森さんの作品は、どれも疾走感があるというか、絵から強いエネルギーを感じるんですが、それは森さんご自身にエネルギーがあり、走り続けているからなんだと、今日お話を伺ってよく分かりました。これまで森さんが触れてきた音楽、映画、テレビ、漫画、アニメ、小説などすべてがつながっていて、作品制作に通底するエネルギーとなっているんですね。
カーブの向こう(五千輪)
Beyond the Curve (Five Thousand Rings)
2019
森 東京2020大会の公式アートポスター《カーブの向う(五千輪)》の原画を展示します。ポスター自体は、大会開催前からさまざまな場所で掲出されていましたが、ペインティングの現物を展示するのは今回が初めてです。作品は、身体や都市のエネルギーをテーマにした作品で、自分にしてはめずらしく抽象的な作品です。
中尾 ポスターではなく原画が初公開されるのですね、すごく観たいです。スポーツがお好きな森さんにとって、まさにぴったりの制作依頼でしたね。
森 そうですね。都市や身体のエネルギーのようなものとして、別々のメモ帳に描いた2つの小さなドローイングを組み合わせて描いています。自分が観ることができなかった東京1964大会に惹きつけられるものがあり、当時の資料を集めてよく作品モチーフにしています。ちょうど今、オリンピックの閉会式を描いた『Eternal Itching(SAYONARA)』という大きな絵が日比谷にある第一生命ギャラリーで展示されているんです。あと小学生のとき、新聞を作る自由研究があったのですが、私はオリンピックへの興味から古代ギリシアのオリンピア祭典競技を調べて特集しました。そんな私なので、オリンピック委員会からポスター制作の依頼を受けたときはうれしかったですね。
Eternal Itching(SAYONARA)
2011
第一生命保険株式会社蔵
Collection of The Dai-ichi Life Insurance Company Ltd.,Tokyo
Photo by ©︎ Norihiro Ueno
中尾 スポーツとアートには、古くから接点があります。身体運動の視覚的なダイナミズムは古代ギリシアの壺絵などに描かれてきましたし、近代になっても印象派や未来派などの画家たちがよくモチーフにしていました。昨年はパリ2024大会にあわせて、ルーヴル美術館、マルモッタン・モネ美術館、プティ・パレ美術館、フォンダシオン・ルイ・ヴィトンなどでスポーツとアートにまつわる展覧会が開催されていましたよね。
私はイヴ・クラインという芸術家が柔道家であったこと(※)や、近現代のアートの大きな転換点となっている芸術家がスポーツの作品で自身の制作のあり方を表現していることについて調べていて、書籍、展覧会の企画、エッセイの執筆などを通じて発表しています。なので、スポーツを絵画のモチーフとして取り上げることと、作品制作のプロセスの中にスポーツの身体感覚を結びつけること、その両方が連動している森さんの画法はとても興味深いです。
※NYのPrinted Matter, Ink.で表紙が気に入り購入した、イヴ・クラインの柔道指南書。
森 やりたいこと、描きたいことが手前にとてもたくさんあるのですが、子どもが生まれて毎日たくさんの絵本を一緒に読むようになってから、いつか「たぬきまんじゅう」の絵本を出版したいという夢ができました。
それと、最終的な夢としては映画を撮ってみたいとずっと思っています。1つ具体的な案があって、今は亡き、「北摂の巨人」という異名をとるほどノッポで柔道三段、トリッキーなアイデアマンの父が面白い逸話をたくさん持っている人だったんです。無形文化財に登録してほしいなと思っていたくらいの、仕上がった上方落語のような伝統的大阪弁で話して聞かせてくれるのが好きでした。ひとつひとつのフレーズにかなり重いパンチ力があって、口から放たれた言葉が私の頭と体に大文字のローマ字で飛び込んでくる感じなんですよ。いつも放浪していて、神出鬼没な人だったので、私は父にたぶん2桁で収まってしまうくらいの回数しか会えなかったんですが、彼が亡くなる少し前に1つの手記が出てきて、表紙に「FAMILY MEMO」と書かれたそのノートを、私がほしいと言って受け取りました。
それは父と祖父の旅行記だったのですが、父は祖父が「死ぬまでに一度行ってみたい」と言っていたオーストラリア旅行に連れて行くという「男と男の約束」をしていたそうです。いよいよ祖父の死期が迫ったとき、父はまだ若く、十分な旅行資金を持っていませんでした。しかしあるアイデアにより見事にオーストラリア旅行を敢行、無事約束を果たし、その後に祖父は安心したかのように静かに亡くなったそうです。その道中のドタバタ劇をコーエン兄弟のようなハートウォーミングで哀愁漂うロードムービーとして撮ってみたいという思いはずっと夢の1つとして持っています。父も兄も家族全員がアイデアマンでした。また、当時の大阪には愛すべき、異様な気風が確かにあった(※)はずだと思うのですが、それぞれが面白いアイデアを常に頭の中で練っている感じでした。
※このあたりの、今まであまり語られたことのない、1990年から2000年代初頭の、大阪の秘められた異様なパワーについてのグループ展「TEXTURE
PUNK」が東京の馬喰町にあるPARCELで行われます(2025年7月12日〜8月24日まで)。
私の作品に、セロハンテープを使った彫刻があるのですが、それは実は兄から伝授された技法なんです。ある日兄の部屋を開けたら、セロハンテープでできた、部屋全体に及ぶような巨大な半透明の船があったんです。その壮大さにびっくりした私は「これを何かの方法で発表しては?」と思わず説得しましたが、「僕は千裕のように美術で生きていこうとするようなエキセントリックなエネルギーは持ち合わせてはいない! まっぴらごめんだ!」と一蹴されました。もったいなく思った私は兄からその技法を伝授してもらい、自分で作ったんです。その技法は「ろくろ製法」と名前までつけられていて、兄は「ベタベタした部分が絶対に出てこずに立体物を作ることができる画期的方法を思いついたのだ」と得意気に教えてくれました。
あるときは、兄の新品のアディダスのスニーカーが味のある飴色になっていたため、どうしたのかとたずねたら「あるものを塗ることで理想的な飴色にヴィンテージ加工できることが分かったが、その成分については聞かれても今後誰にも絶対に教える気はない」とキッパリと言って部屋に戻っていきました。
家族がアイデア豊富だけどそれを形に残すつもりはないことに、面白いことが目の前で泡のようにどんどん消えていってしまう無常というか、儚さのようなものを感じました。別に悪いというわけではなく、それで良いのかもしれないけれど、消えていく日々を何とかして心に留めたいという気持ちがあって、私だけでも自分のアイデアは絶対に形に残したい、と強く思うようになったんです。それからは毎日、一瞬頭をよぎっただけのものや、未完成なアイデアの断片、見間違い、聞き違い、他者の放った印象的なフレーズなども瞬時にメモやドローイングに書き留めるようになり、日々変化する都市を切り取った写真も撮るようになりました。そうして別々の時間に寝かせ、発酵させていた断片と断片が、ある瞬間突然に必然性を持って出会い、結晶化すると作品になるという制作法です。
中尾 それはとても重要で、膨大な制作のプロセスですね。今日は森さんをつくるさまざまな思い出をお聞きしながら、アトリエで幼いころのドローイングや、現在描き溜めている色鉛筆の作品などを拝見しましたが、これまでの自分が持っていた森さんのイメージとはまた異なる、新しい方向性が随所に感じられました。保管されていた幼少期の絵がすべて鉛筆で描かれていたのが特に印象的でしたけれども、よく考えると色鉛筆は幼少期の線画と同じ感覚で線と色が同時に描けるツールですよね。これからどんな作品が生まれてくるのか、ますます楽しみです。
森 鉛筆の線は子どものころに一旦完成した感があり、それを再現するつもりはなかったので、ドローイングに使うのは少し抵抗がありました。色鉛筆も色がやさしい印象だったのであまり手に取ることはありませんでした。ですが、子どもが生まれてすぐから6年ほど、毎日欠かさずたくさんの絵本を読み聞かせているうちに、いつの間にか色鉛筆に対する抵抗がなくなっていたようで、あるとき自然と手に取っていたんです。体が欲していたのかなと思うほど、スルスルと気持ちよく描けました。子どもを産んでも自分の視点や制作意欲は失わないぞという鉄の意志がありましたが、これは子どもが生まれたことが制作に及ぼした自然な変化の1つだと思います。
マイケル・ジャクソンやビートルズなど、スターの写真をひたすら集めて自分が長年撮り溜めている都市のスナップ写真と組み合わせてレンチキュラーを作ったりしているのですが、それも子どもがマイケルやビートルズなどのスターのものすごい吸引力に夢中になる様子に影響を受けて作り始めたものなんです。これからも最も近しい存在と日々を暮らし、成長を観察することから影響を受けて、自分でも知らないうちにどんどん変化が起こるのかもしれませんね。
大阪府生まれ
京都市立芸術大学大学院修士課程美術研究科絵画専攻修了
東京都在住
独自の視点による都市観察を通じて拾った断片を取り込み、絵画、ドローイング、彫刻、アニメーション、写真、インスタレーションなど多様な手法で制作。 その作品は、不穏さと美しさ、生の残酷さと面白さが共存し、アナーキーかつ人間的である。 主な個展に「omoide in my head」(豊田市美術館、2017)など。19年には、「東京2020公式アートポスター」の制作アーティストのひとりに選ばれた。
現在、武蔵野美術大学油絵専攻非常勤講師
主な個展
2017「omoide in my head」 豊田市美術館(愛知)
2016「テニス肘」 Satoko Oe Contemporary(東京)
2012「カラフルなヌカルミ」 CAPSULE(東京)など
主なグループ展
2023「YOGURT COLLAGE」Project Fulfill Art Space(台湾)
2022 「Designing for the Olympics」
Die Neue Sammlung(ドイツ、ミュンヘン)
「ねてるひとと、おきてるひと」PARCEL(東京)
2019 「Vong Co RAHZI」blum&poe(東京)
2018 「CHILDHOOD Another banana day for the dream-fish」Palais de Tokyo(パリ、フランス)
「In Focus: Contemporary Japan」
ミネアポリス美術館(ミネアポリス、アメリカ)
2015「Think Tank lab Triennale―TWO STICKS」
ヴロツワフ建築美術館(ヴロツワフ、ポーランド)
2013 「MOTコレクション 第2部 残像から―afterimages of tommorow」東京都現代美術館(東京)
「六本木クロッシング2013アウトオブダウト」森美術館(東京)
2010 「絵画の庭―ゼロ年代日本の地平から」国立国際美術館(大阪)
2007 「夏への扉―マイクロポップの時代」
水戸芸術館現代美術ギャラリー(茨城)
2006 「ALLLOOKSAME?/TUTTTUGUALE?―日本・中国・韓国からのアート」サンドレッド・レ・レバウデンゴ財団(トリノ、イタリア)
その他活動
2024 lavie 2024/7月号『運動的設計進行式』(台湾)
2021 NUMBER GIRL TOUR 2021 『我々は逆噴射である』
ツアーグッズのドローイングを作成
2020 東京2020 パラリンピック公式アートポスター
2019 NUMBER GIRL TOUR 2019-2020 『逆噴射バンド』
ツアービジュアル、ツアーグッズの制作
2011 Prints21 NO.99 2011秋号/MY FAVORITE 森千裕
2010 リリィシュシュ「エーテル」PV制作に参加
美術評論家/芸術学。東京造形大学特任准教授。近現代芸術に関する評論を執筆。特に、マルセル・デュシャンが没頭したチェスをテーマに、生活(あるいは非芸術)と制作の結びつきについて探求している。著書に『マルセル・デュシャンとチェス』(平凡社、2017年)。編著書に『スポーツ/アート』(森話社、2020年)、『SUPER OPEN STUDIO―制作と生活の集合体』(Super Open Studio 2023 実行委員会、2024年)。近年のキュレーションに「メディウムとディメンション:Liminal」(柿の木荘、東京、2022年)、「ANOTHER DIAGRAM」(T-HOUSE New Balance、東京、2023年)、「メディウムとディメンション:Apparition」(青山目黒、東京、2023年)、「メディウムとディメンション:Maze」(GASBON METABOLISM、山梨、2024年)など。
自身がアーティストやキュレータなど様々な立場で活動している背景から、企画から制作まで多様なプロセスをアーティストと共にし、「空間と人と作品の関係」を模索。リサーチベースのプロジェクトにも数多く参加し、特に都市における公共空間で複数の実験的なプロジェクトを展開。アートユニット「SIDE CORE」の一員として活動する他、宮城県石巻市で開催されてた「Reborn-Art Festival 2017」アシスタントキュレータとして参加、沖縄県大宜見村で開催されている「Yanbaru Art Festival」内では廃墟での会場構成を行うなど多くのプロジェクトに携わっている。