Takashimaya
ていねいに美しく暮らす北欧デザイン展

デザイナー

カイ・フランク
キルタ(後のティーマ)1951アラビア

キルタ(後のティーマ)
1951
アラビア

Kaj Franck

カイ・フランク
1911-1988

フィンランドを代表するプロダクトデザイナーのひとり。カレリア地峡にあったフィンランド第二の都市ヴィーボリ(現ロシア領ヴィボルグ)出身のスウェーデン系フィンランド人である。陶磁器、ガラス、テキスタイルのほか、家具やインテリアデザインなども手掛けた。1929年から1932年にかけてヘルシンキ中央工芸学校(現アアルト大学 美術・デザイン・建築学部)で家具デザインを学んだのち、1934年から1年ほどガラスメーカー「リーヒマキ」でカタログ制作に携わり、そのほかテキスタイルデザインやインテリアデザインも手掛けていた。1939年には芬ソ戦争に兵士として参加している。
1945年からはアラビア製陶所の実用品デザイン部門のチーフ、そしてアート・ディレクターに就任。そのデザイン製品は欧米向け(特にアメリカ)輸出製品として人気を博し、戦後フィンランドの復興に貢献することになる。またガラスメーカー「イッタラ」や「ヌータヤルヴィ」でもアートディレクターとして活躍した。母校ヘルシンキ芸術デザイン大学で教授として教鞭を執ったほか、1951年にはミラノ・トリエンナーレで金賞受賞、1955年にはルニング賞受賞、さらに1957年にはフィンランドの芸術家に贈られる最高賞であるフィンランド獅子勲章を受章するなど、数多くの受賞歴がある。また日本文化と手工芸品への理解が深く、数度来日の経験もある親日家であった。
スウェーデンのモダンデザイン思想に影響を受けて生みだされた汎用性の高い機能的なデザインの完成度もさりながら、社会をよりよいものとするためにデザイナーとして果たすべき使命感を強く持ち続け、デザインの匿名性を志向した姿勢から「フィンランドデザインの良心」とも称される。

キルタ(後のティーマ)1951アラビア

キルタ(後のティーマ)
1951
アラビア

タピオ・ヴィルカラ
ボーレ1967ヴェニーニ

ボーレ
1967
ヴェニーニ

Tapio Wirkkala

タピオ・ヴィルカラ
1915-1985

カイ・フランク、ティモ・サルパネヴァと並ぶ、フィンランドを代表するプロダクトデザイナーであり、また一方でアート・ディレクターとして卓越したデザインセンスとコンセプトで「フィンランドデザイン」を演出し、戦後フィンランド復興期における欧米市場での商業的成功に大きく貢献した。
1933年から1936年までヘルシンキ中央工芸学校で彫刻を学んだのち、1939年にはヘルシンキオリンピック記念切手とフィンランド銀行の紙幣デザインコンペティションで優勝している(切手はのちに1952年のヘルシンキオリンピックに際して発行された)。ヴィルカラの才能は多岐にわたり、1951年ミラノ・トリエンナーレではガラス、木彫、展示デザインの3種でグランプリを受賞し、さらに同年ルニング賞も受賞している。1951年から1954年まで母校でアートディレクターとして後進の育成に関わり、1955年から1年間をレイモンド・ローウィのデザイン事務所(ニューヨーク)で協働した。ガラスデザイン以外にも陶磁器デザインも手掛けており、1965年から1985年にかけてドイツの陶磁器メーカー「ローゼンタール」と協働も行っている。1965年からはスタジオ「デザイン・タピオ・ヴィルカラ」を立ち上げ、ガラス製品のデザインに力を注いだ。
フィンランドの自然はヴィルカラにとって常に創造の源であった。ガラス製品はヴィルカラが手作業で制作する彫刻的なフォルムのプロトタイプを職人たちが高度な技術でひとつひとつプロダクト化している。ヴィルカラはガラスメーカー「イッタラ」が1946年に開催したコンペティションでデザイン賞を受賞したことを皮切りに、とりわけガラス製品のデザインにおいてフィンランドデザインを象徴するアイコニックな作品を残している。

ボーレ1967ヴェニーニ

ボーレ
1967
ヴェニーニ

ティモ・サルパネヴァ
クラリタス1984イッタラ

クラリタス
1984
イッタラ

Timo Sarpaneva

ティモ・サルパネヴァ
1926-2006

フィンランドを代表するプロダクトデザイナーのひとり。カイ・フランク、タピオ・ヴィルカラらと同様、サルパネヴァも多才なデザイナーで、ガラス、テキスタイル、陶磁器、金属(鉄や錫など)などを素材としたほか、照明器具や展示デザイン等を行った。母方の祖父は代々続く鍛冶職人であり、サルパネヴァは職人の家系であることに矜持をもっていた。
ヘルシンキ中央工芸学校でグラフィックデザインを学んだのち、1949年にガラスメーカー「リーヒマキ」の国際コンペティションで2等となったことで、1950年からガラスメーカー「イッタラ」でガラス製品のデザインを手掛け始めた。サルパネヴァがデザインしたガラス食器シリーズ『i-ライン』コレクション(1956年)にみるスモーキーな青や緑、茶、紫といったこれまでのガラス食器にないスタイリッシュなカラーヴァリエーションは「イッタラ」と開発した新しいガラス着色剤によるものだった。また、サルパネヴァの記念碑的作品である花瓶『オルキディア(蘭)』(1954年)は熔解しているガラスに湿った棒を指し込んで蒸気の泡を発生させる技法を効果的に用いている。こうしたガラス製品のデザイン以外にも、「イッタラ」のシンプルで力強いロゴマーク(1956年)や、木製の把手付鋳鉄製キャセロール『サルパネヴァ』(1960年)のデザイン性は今日もなお高く評価されている。また、ドイツの陶磁器メーカー「ローゼンタール」ではテーブルセットやカトラリーのデザインも行うなど、活躍は多岐にわたっている。
サルパネヴァは1954年と1957年のミラノ・トリエンナーレでグランプリ(展示デザイン、ガラス、木彫)を受賞したほか、1956年にはルニング賞を受賞するなど数々の栄誉に輝いている。

クラリタス1984イッタラ

クラリタス
1984
イッタラ

フーゴ・アルヴァ・ヘンリク・アアルト
41 アームチェア パイミオ1932アルテック

41 アームチェア パイミオ
1932
アルテック

Hugo Alvar Henrik Aalto

フーゴ・アルヴァ・ヘンリク・アアルト
1898-1976

アアルトはドイツのルートヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエ、フランスのル・コルビュジェ、アメリカのフランク・ロイド・ライトと並ぶ世界の4大建築家のひとりだ。1898年フィンランド中西部、クォルタネに生まれ、ヘルシンキ工科大学を卒業。エリエル・サーリネンの事務所に務めた後、1923年、ユバスキラで自身の事務所をもつ。翌年、アイノ・マルシオと結婚、1949年、アイノが亡くなるまで共働し、お互いに影響し合い、その創作活動を高めていった。その活動領域は広く、建築設計、都市計画、ガラス器をはじめ照明器具やテキスタイルなどのデザイン、さらに抽象絵画などに優れた才能を発揮した。
彼の名を広く知らしめたのは、1928年、パイミオのサナトリウムのコンペティションで一等賞を獲得してからである。彼の設計した建築プロジェクトは多く、50を超える大型公共施設から教会、美術館のほか、小規模な住宅まで数多ある。それらはフィンランド国内にとどまらず、フランスやアメリカ、ドイツ、デンマークなど、活動した地域は広い。アアルトはフィンランド語で「波」を意味するものであるためか、彼の建築作品の内部空間には波を連想させる美しい曲面の壁や天井が見られる。
1920年代前半から家具デザインを始めるが、初期のものは過去の様式家具と大差ない。1920年代後半になるとバウハウスの影響からか、カンチレヴァー(片持ち)構造やスタッキング(積み重ね)構造など、構造と技術開発に注力し、新しいデザインを発表していった。二次元成形合板を使ったパイミオチェアや、木を薄くスライスし、木目と同じ方向に重ねて曲げる、ラメラ曲げの技術を使ったカンチレヴァチェア、さらに無垢材を木目方向に鋸で切れ込みを入れ、そこに薄板を差し込み、部分的に積層状態を生み、その部分を曲げる鋸引き曲げ(L-レッグ)などで家具デザイン史に残る名作を数多く生み出した。

41 アームチェア パイミオ1932アルテック

41 アームチェア パイミオ
1932
アルテック

アルネ・イミール・ヤコブセン
アントチェア1952フリッツ・ハンセン

アントチェア
1952
フリッツ・ハンセン

Arne Emil Jacobsen

アルネ・イミール・ヤコブセン
1902-1971

アルネはコペンハーゲンで卸売業を営んでいたグロッセラー・ヨハン・ヤコブセンのもとに生まれた。幼少期から絵画にその才能を示したが、父の勧めで1924年、王立芸術アカデミーの建築科に入学、カイ・フィスカーに学ぶ。当時はドイツのバウハウスがヨーロッパ各地に影響を及ぼしており、ヤコブセンもバウハウス3代目の校長、ルートヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエの影響を受けたと語っている。
1925年、パリ万国博覧会のデンマーク館の椅子をデザイン。1929年、フレミング・ラッセンと共に〈未来の家〉を発表。デンマーク建築における機能主義建築、インターナショナルスタイルの建築を始めた最初の建築家となった。1930年代にはコペンハーゲン北部のクランペンボーの海岸沿いに〈ベラヴィスタ集合住宅〉を設計。1940年にはナチスからの迫害を恐れ、ポール・ヘニングセンと共に手こぎボートでスウェーデンに亡命。その頃、1942年にデンマーク第2の都市オーフス市庁舎の設計に関わるが、その際未だ無名だったハンス J・ウェグナーが彼の事務所に在籍しており、オーフス市庁舎の家具デザインのほぼ総てをデザインしている。
1952年には代表作〈アントチェア〉を発表。1956年竣工のSAS ロイヤルホテル(現ラディソンブルー・ロイヤルホテル)はデンマーク初の高層ホテルであり、このホテルのためにエッグチェアやスワンチェア、照明器具、テキスタイルからドアノブ、水栓金物まで一貫してデザインした。また、イギリス、オックスフォード大学、セント・キャサリン・カレッジのランドスケープデザインまで含む総合的な設計手法はヤコブセンの集大成的なものであった。1971年に着工したデンマーク国立銀行が彼の遺作となった。

アントチェア1952フリッツ・ハンセン

アントチェア
1952
フリッツ・ハンセン

フィン・ユール
チーフティンチェア1949ニールス・ヴォッダー

チーフティンチェア
1949
ニールス・ヴォッダー

Finn Juhl

フィン・ユール
1912-1989

1912年、コペンハーゲン近郊のフレデリクスベアに生まれる。父は織物の卸業を営む会社を経営し、経済的に恵まれた環境であった。しかし、ユールが生まれて3日後に母親は亡くなった。少年期には美術史家を目指すが、父親の反対もありサンクト・ヨルゲン・ギムナジウムを卒業後、王立芸術アカデミー建築科に進み、カイ・フィスカーの指導を受ける。在学中ストックホルム博覧会を訪れ、博覧会の総監督を務めていたエリック・グンナール・アスプルンドの機能主義建築の影響を受けた。また、在学中の1934年、アカデミーで教鞭を執っていたヴィルヘルム・ラウリッツェンの事務所に入り、アカデミーの卒業は断念した。11年間在籍していた間にカストラップ空港ビルやラジオビルディングの設計で大きな実績をあげた。それらの設計では設備関係や家具のデザインも手掛け、後のフィン・ユールデザインの礎を築くことになった。
ユールが21歳になった時、母親からの遺産を受けとり自立。一人暮らしを始めるが、この頃自身のデスクをデザインしている。家具デザインへの興味は名匠ニールス・ヴォッダーの協力により具現化された。デンマークでは家具職人の修業を経て、〈マイスター〉の資格を取得しなければ家具デザインへの道に進むことが許されておらず、ユールのようなケースは極めて稀であった。
1937年のコペンハーゲン・キャビネットメーカーズ・ギルド展に参加して以降、1945年頃まではあまり高い評価は得られなかったが、1945年頃からアメリカを中心に高い支持が得られた。ユールこそがデンマーク家具を世界に知らしめた最初の人物といえよう。家具のみならず、様々なプロダクトデザイン、住宅設計、商業施設などのインテリアデザイン、展覧会の展示計画など、その活動領域は広く、いずれの分野においてもその美しさに対する彼の審美性と機能性がゆるぐことはなかった。

チーフティンチェア1949ニールス・ヴォッダー

チーフティンチェア
1949
ニールス・ヴォッダー

ハンス・ヨルゲンセン・ウェグナー
ザ・チェア プロトタイプ1949ヨハネス・ハンセン

ザ・チェア プロトタイプ
1949
ヨハネス・ハンセン

Hans Jørgensen Wegner

ハンス・ヨルゲンセン・ウェグナー
1914-2007

ユトランド半島のドイツ国境に近い街、トゥナーに靴職人のピーター・ウェグナーの次男として生まれる。14歳で家具職人H.F. スタルベルクのもとで徒弟として修業をする。17歳でマイスターの資格を修得、この時初めてイージーチェアを制作。1936〜38年コペンハーゲンの美術工芸学校でデザインを学ぶ。1939年、エリック・モラーとフレミング・ラッセンの事務所に勤める。この時、ニーボー市の図書館の家具類を総てデザインしたが、その時デザインしたのはウィンザータイプの椅子で、当時のまま現在も使われている。
1940年、デンマーク家具界の重鎮、ヨハネス・ハンセンとの協力関係が始まる。この関係は、その息子、ポール・ハンセンの代まで続き、数々の名作を生み出した。1940〜43年、アルネ・ヤコブセン事務所に招かれ、オーフス市庁舎の家具類のデザインを担当する。1943年、フリッツ・ハンセン社からチャイナチェアを、1947年にはヨハネス・ハンセン社からピーコックチェアを発表。さらに1949年には最高傑作ザ・チェアを発表。以降、彼は過去の様式家具を改良・改善するリデザインの手法で多くの椅子をデザインした。その数は生涯で500を超えるともいわれる。
1951年には第1回のルニング賞をフィンランドのタピオ・ヴィルカラと共に受賞。同年、ミラノ・トリエンナーレでグランプリ受賞など、1950年頃を境に彼の評価は世界的なものとなった。しかし、ウェグナーは終生、自分はひとりの家具職人であるという立ち位置を崩すことはなかった。素材特性を熟知し、理に適った構造と経済性を追求しつつもハンディクラフトの持ち味を損なうことなく、作り手、使い手双方の立場を考えたもの作りに徹した人物であった。

ザ・チェア プロトタイプ1949ヨハネス・ハンセン

ザ・チェア プロトタイプ
1949
ヨハネス・ハンセン

ヘニング・コッペル
ニューヨーク1963ジョージ ジェンセン

ニューヨーク
1963
ジョージ ジェンセン

Henning Koppel

ヘニング・コッペル
1918-1981

デンマークを代表するプロダクトデザイナーのひとり。金属、陶磁器、ガラス、照明器具といった多様なプロダクトのデザインを手掛けた。デンマーク王立美術学校で彫刻を学んだのち、1938年から1939年をパリに留学して過ごした。第二次世界大戦中の1940年、ナチス・ドイツの占領下におかれた中立国デンマークは、ナチス・ドイツによるユダヤ系市民の国外移送に抵抗し、国ぐるみでユダヤ系市民を隣国の中立国スウェーデンへ密かに移送した。ユダヤ系市民であったコッペルもこの時期にスウェーデンの首都ストックホルムへ逃れ、スウェーデンのガラスメーカー「オレフォス」に在籍したり、ジュエリーデザインを手掛けたりした。
戦後、1945年にデンマークへ帰国してからは、1945年から1981年までデンマークのシルバークラフトメーカー「ジョージ ジェンセン」でシルバーウェア、シルバーカトラリーのほか、時計やシルバージュエリー等をデザインした。さらに1961年からはデンマークの陶磁器メーカー「ビング・オー・グレンダール」で食器のデザインも手掛けた。またガラスメーカー「ホルムゴー」や照明器具メーカー「ルイスポールセン」でもデザインを行っている。コッペルのデザインは滑らかな曲線フォルムが特徴的で、なかでも魚や鳥のフォルムを抽象的に象ったスタイルにはコッペルの彫刻家的感性を感じさせる。
コッペルのデザインはデンマーク国内のみならず国外でも高く評価を受け、産業と芸術の国際博覧会ミラノ・トリエンナーレでは三度金賞を受賞している(1951年・1954年・1957年)。また、1950年代から70年代にかけて北欧デザイナーに対する権威あるデザイン賞であったルニング賞を1953 年に受賞している。

ニューヨーク1963ジョージ ジェンセン

ニューヨーク
1963
ジョージ ジェンセン

イェンス・ハラルド・クイストゴー
オーディン1958ダンスク・インターナショナル・デザイン

オーディン
1958
ダンスク・インターナショナル・デザイン

Jens Harald Quistgaard

イェンス・ハラルド・クイストゴー
1919-2008

父は王立芸術アカデミーの教授で彫刻家のハラルド・クイストゴーである。1929〜40年まで父親から彫刻、製図、彫金、陶芸、木工などを学び後のイェンスの創作活動の基礎はこの頃に培われたといえる。1937年から4年間、テクニカルスクールに学ぶ。
1947年、スターリングシルバーのカトラリー〈シャンパン(Champagne)シリーズ〉を発表。1949〜54年、パルシュス(Palshus)社からティーポットなどを発表。1953年にはチーク材のハンドルのカトラリー〈フィヨルド(Fjord)〉を発表。1954年にはアメリカ人のテッド・ニーレンバーグ(Ted Nierenberg)と共にダンスク・インターナショナル・デザイン社を設立、その市場を世界に展開させた。同社では製品ごとに素材や技術などに適した国々で製造を行なったが、クイストゴーのデザインディレクションは徹底され、そのクオリティは保たれた。
この年、ミラノ・トリエンナーレでゴールドメダル、そしてルニング賞も受賞。1956年にはキッチンウェア〈コベンスタイル〉を発表。蓋の上にもキャセロールなどを載せられるユニークな構造は世界的支持を得た。1958年にはアメリカの大手百貨店チェーンのニーマン・マーカス賞を受賞。1960年にはDANSK のロゴタイプをデザイン、そのタイプフェース名は〈イェンス〉であった。1962年にはオーストリアからゴールデン・スプーン賞を受賞。1965年からはデンマークのニッセン社のデザインディレクターを務め、多くの作品を発表。クイストゴーほど素材の扱いに優れ、有機的曲線を駆使し、北欧の“ 日用品をより美しく” というスローガンを自身の創作活動で実践した人物はいない。言わば優れた生活デザイナーであった。

オーディン1958ダンスク・インターナショナル・デザイン

オーディン
1958
ダンスク・インターナショナル・デザイン

ポール・ケアホルム
ハンモックチェア PK241965フリッツ・ハンセン

ハンモックチェア PK24
1965
フリッツ・ハンセン

Poul Kjærholm

ポール・ケアホルム
1929-1980

デンマークのオスターヴロに生まれる。15歳でトーヴァル・グロンベック(Thorvard Grønbech)のもとで家具職人の徒弟として働き始め、1948年、19歳でマイスターの資格を修得した。その際制作したのはライティングキャビネットであった。1950〜52年にかけてハンスJ・ウェグナーの事務所に非常勤で務める。1949年、コペンハーゲン美術工芸学校の夜間コースでウェグナーやアイナー・ラーセン(Ejner Larsen)、建築家のヨーン・ウッツォンらにデザインを学ぶ。1952年、美術工芸学校を卒業するが、その際1951年にデザインしたイージーチェア(PK-25)は現在もなおフリッツ・ハンセン社で製品化され続けている。卒業後、フリッツ・ハンセン社に入社、1年間程の在職中、幾つかの椅子をデザインし、プロトタイプが作られた。1955〜59年には王立芸術アカデミーの教官に、1959〜73年には准教授に、1973〜76年には教授に、そして1976〜80年まで学長を務めた。
1955年、ウェグナーの紹介でアイヴァン・コル・クリステンセン(Ejvan Kold Kristensen)と出会い、彼との共働関係の中から様々な名作が生まれることになった。1957年と1960年にはミラノ・トリエンナーレでグランプリを受賞、1958年にはスウェーデンのシグネ・パーション= メリンと共にルニング賞を受賞、1960年にはエッカースベア賞などその栄誉は多い。
デンマーク家具業界では木を主な材料としていた時代に、スチールや大理石、ガラスなどを使い、繊細かつ鋭いディテールと、0.1ミリの誤差をも許さぬ厳格な部材の処理と美しいプロポーションはデンマーク家具に新しい領域を生んだ。彼の作品は、素材、構造、形態など総ての面において厳密に選択され、極限にまで無駄を削ぎ落とした“Less is more”を具現化したデザインであった。

ハンモックチェア PK241965フリッツ・ハンセン

ハンモックチェア PK24
1965
フリッツ・ハンセン