「暮らす」のその先、柏をつくる人
約1700を超える市区町村、その1/1700の街、柏で76年という人生のほとんどを生きる「柏二番街商店会」理事長の石戸新一郎さん。経営者でありながら1日の通行量3万人を誇る二番街アーケードを作り、様々な団体の立ちあげ、街のイベント企画など今の柏を築いた一人。
人が暮らすにはその街の先を見つめ、未来の街を考え作り続けている人がいる。当たり前だけど忘れてしまいがちなことに目を向けると、より深くこの街が好きになるかも。今回ご紹介するのは人生を柏に捧げる石戸新一郎さんの【柏で暮らすこと】。
石戸 新一郎さん PROFILE
柏生まれ、柏育ち。1947年11月3日生まれ。
株式会社石戸画材ビル代表取締役。いしど画材創業者。柏二番街商店会現理事長、柏駅東口中央商店街連合理事長、NPO法人アートラインかしわ理事長。
大学卒業後の1年半を除き76年を柏で過ごす根っからの柏ビト。
石戸新一郎さんは1947年、柏二番街の豆腐屋の息子として生まれた。姉4人、5番目の待望の長男だった。
1963年に父親が初代京北ビル(現:石戸画材ビル)を建設し豆腐屋を閉じた途端、母親が体調を崩した。どうしたものかと家族で話し合い、姉の「柏には油絵の具を売っている店がない」という言葉をきっかけに、父親が画材屋を始めようと決意。そんなに稼げなくとも、体調の優れない母親が気晴らしに店番できる場所になればと。そんな矢先、母親が倒れ奇しくも開店予定日が母親の葬式に変わった。まさしく青天の霹靂だった。

画材屋の舵取りは大学1年だった石戸さんの手に。卒業後は蔵前のおもちゃ問屋、大阪のおもちゃ屋で小売を学び柏に戻った。
1973年にファミリかしわ3階に店舗を入手し、画材屋と並行しおもちゃ屋をオープン。20坪ほどの小さな店だったが、同じ年に開店したそごうや高島屋に負けない特化型専門店として業績は好調だった。
トイザらスが柏に進出するという話を聞き、早々におもちゃ屋を画材屋に変え2店の画材屋の経営者になったのは1985年、当時38歳のころ。
20代は商売を学び、30代は会社の基礎づくりに奔走、そろそろ街づくりの担い手となる準備が整ってきた予感。
40代になり本格的に利益を出そうと意気込んだが、初代アーケードとビルの老朽化に直面。建替えるならバブル真っ只中の今しかないと、アーケード建設委員長としてアーケードの建設と自社ビルの建替えを一挙に行った。
リーマンショック以降から今日まで、全国の商店街を訪れ主要な人物から学ぶこと20年。様々な街を見る中で「街は誰かが作らないとダメだ」と気づき、柏駅周辺イメージアップ推進協議会を立ちあげた。ストリートミュージシャンコンテストやファッションショー、ラーメンファイトなど様々なイベントを企画し若者へ街の面白さを魅せ続けた。柏が【東の渋谷】と呼ばれるようになったのは、これがきっかけ。
他の街に住んでみたいと思ったことは一度もない、そう言い切る石戸さん。
都会と田舎の両方の顔を持ち、東京の文化がいつでも手に入る場所であること。そして街の一時代を作ったという自負も柏への思いを一層強くさせている。
「僕は土着の人間で、自分は親からもらったものを次の世代に渡す区間の一人でしかない。二番街を捨てて、どこかに行きたいなんて考えたことがない。」
街は常に変わり、新しい人間が背負って立つ。そのバトンを自分が握り、それをいつか渡すことが石戸さんの信念であり柏に生まれた意味。
石戸さんにとって、すぐ傍で地域一番店として存在し続ける柏高島屋には、思い出も期待もたっぷり。「大学を卒業し物を買うのはいつも高島屋。特に母親は高島屋の大ファンで、バラの包装紙をこよなく愛していた。」と懐かしそうに話してくれた。スーツは高島屋の[ランバン コレクション]で揃え、バブル時代はシーズン毎に購入するほどのお得意さんだった。
あまり買物をしないという石戸さんだが、最近はポールスミスのバッグを購入。質の良さと流行り廃りを考え随分探した結果、行き着いたのはやっぱり高島屋だった。
月に数回は高島屋に訪れ、時代の流行を見るのが石戸さんの日課。地方都市の百貨店の見本になって欲しいと期待も強く「最上階に街の駅を作るみたいな、常に人の集まるような何かを仕掛けて欲しい」と何を見ても街へのアイディアが湧きあがる。こんなにも街を思い続ける人が支える柏、やっぱりいい街だと思わずにいられない!
編集・協力:コスキマー菜緒
千葉県松戸市出身。高校時代に柏で青春を過ごす。大学進学と共に、都内で8年過ごした後2017年に柏へ転居。Koskimaa Designを立ちあげ、柏を中心に様々なウェブサイトやデザインを手がける。全国初のエリア型商店会、【ウラカシ百年会】では事務局長を務め、同会の発行する雑誌PICKUPの執筆などライターとしても活動。
石戸さんが長く愛用する柏高島屋では、幅広いジャンルのブランドやカフェ・レストランが揃い、様々な催事やイベントも開催。「買う」「食べる」「楽しむ」、柏高島屋には胸が高まるものがいっぱい。二番街アーケードをお散歩の後は、ぜひ柏高島屋にお立ち寄りください。
次回の記事更新は10/28(火)を予定しております。
※価格表示のないものは参考商品です。
人が暮らすにはその街の先を見つめ、未来の街を考え作り続けている人がいる。当たり前だけど忘れてしまいがちなことに目を向けると、より深くこの街が好きになるかも。今回ご紹介するのは人生を柏に捧げる石戸新一郎さんの【柏で暮らすこと】。
石戸 新一郎さん PROFILE
柏生まれ、柏育ち。1947年11月3日生まれ。
株式会社石戸画材ビル代表取締役。いしど画材創業者。柏二番街商店会現理事長、柏駅東口中央商店街連合理事長、NPO法人アートラインかしわ理事長。
大学卒業後の1年半を除き76年を柏で過ごす根っからの柏ビト。

柏で生まれ、柏で暮らす
石戸新一郎さんは1947年、柏二番街の豆腐屋の息子として生まれた。姉4人、5番目の待望の長男だった。
1963年に父親が初代京北ビル(現:石戸画材ビル)を建設し豆腐屋を閉じた途端、母親が体調を崩した。どうしたものかと家族で話し合い、姉の「柏には油絵の具を売っている店がない」という言葉をきっかけに、父親が画材屋を始めようと決意。そんなに稼げなくとも、体調の優れない母親が気晴らしに店番できる場所になればと。そんな矢先、母親が倒れ奇しくも開店予定日が母親の葬式に変わった。まさしく青天の霹靂だった。

柏で暮らし、柏で営む
画材屋の舵取りは大学1年だった石戸さんの手に。卒業後は蔵前のおもちゃ問屋、大阪のおもちゃ屋で小売を学び柏に戻った。

トイザらスが柏に進出するという話を聞き、早々におもちゃ屋を画材屋に変え2店の画材屋の経営者になったのは1985年、当時38歳のころ。
20代は商売を学び、30代は会社の基礎づくりに奔走、そろそろ街づくりの担い手となる準備が整ってきた予感。

柏で営み、柏をつくる
40代になり本格的に利益を出そうと意気込んだが、初代アーケードとビルの老朽化に直面。建替えるならバブル真っ只中の今しかないと、アーケード建設委員長としてアーケードの建設と自社ビルの建替えを一挙に行った。


柏をつくり、柏を愛す
他の街に住んでみたいと思ったことは一度もない、そう言い切る石戸さん。
都会と田舎の両方の顔を持ち、東京の文化がいつでも手に入る場所であること。そして街の一時代を作ったという自負も柏への思いを一層強くさせている。
「僕は土着の人間で、自分は親からもらったものを次の世代に渡す区間の一人でしかない。二番街を捨てて、どこかに行きたいなんて考えたことがない。」
街は常に変わり、新しい人間が背負って立つ。そのバトンを自分が握り、それをいつか渡すことが石戸さんの信念であり柏に生まれた意味。
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柏の顔は、やっぱり柏高島屋
石戸さんにとって、すぐ傍で地域一番店として存在し続ける柏高島屋には、思い出も期待もたっぷり。「大学を卒業し物を買うのはいつも高島屋。特に母親は高島屋の大ファンで、バラの包装紙をこよなく愛していた。」と懐かしそうに話してくれた。スーツは高島屋の[ランバン コレクション]で揃え、バブル時代はシーズン毎に購入するほどのお得意さんだった。


Information
●ポール・スミス 柏髙島屋ステーションモール(S館4階 専門店)
営業時間 午前10時00分〜午後8時00分
●ポール・スミス 柏髙島屋ステーションモール(S館4階 専門店)
営業時間 午前10時00分〜午後8時00分

お買物、レストラン、催事。多彩な「楽しい」をつくる柏高島屋
石戸さんが長く愛用する柏高島屋では、幅広いジャンルのブランドやカフェ・レストランが揃い、様々な催事やイベントも開催。「買う」「食べる」「楽しむ」、柏高島屋には胸が高まるものがいっぱい。二番街アーケードをお散歩の後は、ぜひ柏高島屋にお立ち寄りください。
次回の記事更新は10/28(火)を予定しております。
※価格表示のないものは参考商品です。