00. 高島屋・東神開発都市文化賞とは

現代における都市⽂化を、商業や消費等の観点から独創的な視座のもとに分析し、私たちの社会、そして将来に新たな⽰唆をもたらすような優れた表現活動を挙げた著作物を顕彰します。
毎年1⽉以降、1年間に刊⾏された⽇本語の著作を対象とし、選考にあたっては、推薦委員協⼒のもと、審査員6名が受賞作を選出します。また、受賞作決定にあわせて記念イベントの開催も予定しております。

同時に本賞は、優れた著作物に光を当てるという意味においては顕彰の形式をとりますが、本質的には、都市文化への「継続する問い」であると考えております。「高島屋・東神開発都市文化賞」とは、賞であると同時にプロセスでもあり、わたしたちは、年間を通じた議論の場を通して、「都市文化とはなにか」という問いに開かれた回路を持ち続けます。

01. 受賞作のご紹介

高島屋・東神開発都市文化賞2026
大賞

山口晃『趣都』
(講談社, 2025)

  • share
  • LINE
  • X

受賞コメント

画廊の担当さんから「趣都」が何やら受賞したとの知らせを受け、聞けば「東神開発都市文化賞」なる聞いたことのない賞である。これは、受賞したは良いが気がつくとこちらが何がしかのお金を払うことになっている類の賞ではないか。不安になって問い返すに、「東神」の前に「高島屋」と入っており、審査委員長は五十嵐太郎氏だという。大分安心であるが、そうなると今度は受賞作が五十嵐氏の論考を参照している事や、高島屋に仕事を頂いた過去がある事など、インサイダーな点が気になった。重ねて問うに、まあそういうことは先方も考慮の上だから気にせずお受けしてはどうかと、労るように言われた。往々にして作品は作者より利口である。僭越の誹りを恐れず、開明なる審査員諸氏の選考を信じて受賞の栄誉に浴することにした。賞の関係各位、そして「趣都」を完成に導いてくださった漫画の方の担当さんに衷心感謝申し上げたい。

2026年6月6日   山口晃

高島屋・東神開発都市文化賞2026
技芸が響きあうバザールワールド賞(五十嵐太郎)

有馬恵子
『京都出町のエスノグラフィ
ミセノマの商世界』
(青土社, 2025)

  • share
  • LINE
  • X

受賞コメント

この度、「高島屋・東神開発都市文化賞 二〇二六 特別賞」を賜りましたこと、大変光栄に存じます。

私が執筆した本は、京都の出町というまちを描いています。出町は、四条河原町にある京都高島屋から、ちょうど北へバスで二十分ほど、河原町今出川に位置しています。受賞の知らせを受けて、出町と高島屋との不思議な縁に思いを馳せました。

店の主人らと話していると、「百貨店」へのライバル意識が見え隠れすることがあります。たとえば、百貨店が扱う高級品に対して、店主らは、自分たちなりの独自の品を仕入れ、開発しようとしていました。また、出町桝形商店街を写真祭の会場として使うことになった時、店主らが「百貨店ではできないことをやるんだ」と盛り上がっていたことも思い出されます。

一方で、とある店の「お母さん」のことも忘れられません。ご商売熱心な方でしたが、むしゃくしゃすることがあると高島屋へ出向き、高級ブランドの鞄を「ポン」と買うような豪快な一面をお持ちでした。また、贈り物といえば「高島屋」。薔薇の包み紙は、出町にはない特別なブランドでもありました。

百貨店と個人店、あるいは出町から見た四条。その関係は、単純な中心と周縁、あるいは大と小の関係に回収されるものではなく、互いを映し合うリバーシブルなものとして存在しているように思います。百貨店も個人店も、京都という都市の一部として、また店どうしの連なりのなかで、京都という都市文化をともに形づくってきたのだと、この賞をいただき改めて感じました。

この賞は、私個人というよりも、出町というまち、あるいは小さな店や場を営み、また営んでおられた方々にいただいた賞なのだと思っています。大変誇らしく、嬉しく思います。

この度は、誠にありがとうございました。

有馬恵子

オスカー賞(大山顕)

梅川由紀
『ごみと暮らしの社会学 
モノとごみの境界を歩く』
(青弓社, 2025)

  • share
  • LINE
  • X

受賞コメント

この度は大変すてきな賞に選考いただき、ありがとうございます。とても嬉しく、また身の引き締まる思いです。

私はごみが大好きです。とても「面白い」存在だと思うのです。誰もが毎日うみだしていて、とても深い関わりを持ちながら、私たちはごみを臭いとか汚いとか、どのように排除しようかとか、ネガティブにばかり語ります。ごみ問題の深刻さは理解しています。でも、ごみは本当にネガティブな側面しか持たないものなのでしょうか?ごみを「問題」ではなく「生活文化」として捉えてみたら、一体何がみえるでしょうか?そんな思いを抱いて書いたのが本書です。

都市文化とごみは切っても切れない関係にあると思います。本書がごみの新たな側面に光をあて、ごみに関心を持ってくださる方を増やす一助となることを願っています。

梅川由紀

反照と継承賞(小田原のどか)

大坂拓
『写真が語るアイヌの近代 
「見せる」「見られる」のはざま』
(新泉社, 2025)

  • share
  • LINE
  • X

受賞コメント

この度は、高島屋・東神開発都市文化賞「反照と継承賞」を賜り、誠にありがとうございます。本書を審査頂きました先生方、世に送り出して下さった新泉社の皆様方、手に取って丁寧な感想やご意見を寄せて下さった多くの読者の方々、そしてなにより、本書をまとめるまでの過程で多大なるご協力を頂いた長万部アイヌ協会、八雲アイヌ協会を始めとする関係者の皆様方に、改めて深く御礼申し上げます。

本書では、アイヌ民族を被写体とした古写真を取り上げ、人類学者の手つきでそこに写るものの真正性を評価するのではなく、また「写した側」のまなざしが内包する限界を指摘することに留まることもなく、「写された側」の歴史を描き出すことを試みました。今後も、今回の受賞を励みに、新たなアイヌ近代史叙述という目標を展望しつつ、アイヌ民族が経験した困難の実態と、その中を生きた一人ひとりの姿を明らかにする地道な歩みを続けて参ります。

大坂拓

聴こえない声を掬いとる賞(木ノ下裕一)

内海潤也, 北村毅,
佐喜真彩,
志賀理江子, 東琢磨(著),
シェリル・シルバーマン, クリストファー・スティヴンズ, パメラ・ミキ(訳)
『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着』
(公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館, 2025)

  • share
  • LINE
  • X

受賞コメント

このたびは、『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着』展図録に「聴こえない声を掬いとる賞」を賜り、誠に光栄に存じます。

本展は、石橋財団のコレクションと山城知佳子氏、志賀理江子氏との対話から生まれた展覧会です。沖縄と東北という、それぞれ固有の歴史や記憶を抱える土地を拠点とする二人の作家の実践を通して、それらを東京からあらためて見つめ直し、私たちの社会との関係のなかで考える機会となることを目指しました。

このたびの受賞を、本展および図録の試みに対する評価と捉え、アーティゾン美術館として大変ありがたく受け止めております。展覧会と図録の制作にご協力いただいた作家、執筆者、編集者、デザイナーをはじめ、すべての関係者の皆様に心より御礼申し上げます。

公益財団法人石橋財団 アーティゾン美術館

都市と身体賞(瀧波ユカリ)

小川公代
『ゆっくり歩く』
(医学書院, 2025)

  • share
  • LINE
  • X

受賞コメント

母を介護して9年近くになりますが、『ゆっくり歩く』を執筆したおかげで、普通なら気づかなかったことに気づけたり、つらく感じたであろうことも楽しんだりすることができたように思います。介護するなかで、母と歩んできた過去だけでなく、父や祖母と過ごした日々の記憶、その景色までも思い出されたことを、ほとんど祝福のように感じています。医学書院の「ケアをひらくシリーズ」は私自身がずっと愛読してきただけに、このシリーズを立ち上げた白石正明さんの最後の担当書籍となった本作が受賞したとうかがい、とてもうれしいです。ありがとうございます!

小川公代

都市への想像力賞(富永京子)

加藤耕一
『建築のラグジュアリー 
物質と構築がつむぐ建築史』
(東京大学出版会, 2025)

  • share
  • LINE
  • X

受賞コメント

思い返してみれば、私にとっての都市文化の原体験は、玉川高島屋S・Cでした。二子玉川に住んでいた小学生の頃、このデパートのなかを自分勝手に通学路に設定して、学校帰りには毎日のように歩き抜け、その華やかな世界を子どもながらに愉しんでいたからです。栄えある第一回「高島屋・東神開発都市文化賞」受賞のご連絡をいただき、そのことを鮮明に思い出しました。
本書のなかでは、一九世紀のパリで誕生したデパートへの人びとの熱狂が、鉄とガラスの革新的な建築空間に加えて、布地の物質性によって引き起こされたことに光を当て、現代を生きる私たちが、ふたたび物質の力に惹きつけられていることを論じました。本書の内容は都市文化からインテリアにまで及んでいますが、建築・都市の「物質の力」と「時間の力」をラグジュアリーという概念で再考したものです。このような観点から、21世紀の都市文化を問い直すことができるのではないかと考えています。

加藤耕一

02. 選評と選考経緯

審査員選評(50音順)

  • share
  • LINE
  • X

審査員長 五十嵐太郎(建築史・建築批評)

昨年、「賞の設立によせて」という文章で、以下のように記した。
「今回、創設される賞は、現代の都市文化に対し、新しい示唆をもたらすような著作物を顕彰するものだ。手にとって読む本は、研究、評論、小説、漫画、写真集など、さまざまな形式をとりうるメディアのパッケージである。ウェブの時代に、改めて本の力を感じさせるとともに、街への独創的な回路をもった著作と出会うことを期待している」。
 およそ100名の推薦委員から寄せられた候補作から絞り込み、6名の審査員が議論した結果、初回の大賞に決まったのが、山口晃さんの著作『趣都』だった。すなわち、本という形式をとっていれば、受賞の対象になりうることをあらかじめ提示していたわけだが、実際、現代美術家による漫画の形式をとった本が選ばれたのである。最終の議論では、ほとんどの審査員がこれを受賞候補に挙げていたが、すんなりと決まったわけではない。二回目ならともかく、いきなり漫画を選んでよいのか、という逡巡があったからだ。もっと普通の本、あるいは学術書の可能性はないか、という検討も試みられた。
 ちなみに、有力な対抗馬のひとつとなったのは、やはり複数の支持があった西本千尋さんの『まちは言葉でできている』だ。まちづくりに関わる著者が、具体的な事例(神宮外苑、川越、中野など)をもとに、一般向けに法や制度が、いかに現実の都市空間を形成するかを紹介した本である。しかも開発側の視点ではなく、住民に寄り添う。筆者も登壇した4月末のゲンロン・カフェで「建築家はいまなにと闘うべきか 日建設計から巨大建築を批評する」をテーマに討議した際、内藤廣さんが建築家は現実をつくる法律をもっと学ぶべきだと発言したときに、この本を思いだしていた。すなわち、林昌二の有名なアフォリズム「その社会が建築を創る」ではなく、「その言葉(=法律)が建築を創る」のだ。都市文化を語るのに、示唆を与える本であることは間違いない。
 もっとも、議論では、『趣都』vs『まちは言葉でできている』という対決の構図にはならず、前者をどう評価すべきかに終始した。電線や首都高をめぐって、あなたは本当に景観をちゃんと見て、考えているのか。『趣都』の主張は、筆者も以前、『美しい都市 醜い都市』で問題提起したトピックと重なり、大いに賛同する。だから、審査委員長の好みで、大賞を選んだと思ってもらっても困る。が、ほかの4人の審査員も推しており、最多の支持を獲得し、それぞれの評価ポイントが少しずつ異なっていたことも重要だった。ちなみに、視点はかぶると前述したが、それでも『趣都』はさらに発見的な都市景観の読み方を示しており、さすがアーティストの本だと感心させられた。文章だけでは表現できない。また絵画でも表現できない。つまり、漫画という形式でなければ、伝えることが難しい都市文化の本である。
 ともあれ、反対意見も含めて、ずっと『趣都』の議論で盛り上がり、最後はこれしかないだろうということで、大賞に決定した。これを受けて、続編が執筆されることも期待したい。
 さて、個人賞としては、有馬恵子さんの『京都出町のエスノグラフィ』を選んだ。まちづくりの歴史とスポンジ化、コロナ禍の期間を含む、ミセノマの実態を調査し、技芸としてのアートの可能性に触れて、ポリフォニックなまちの姿を描いた研究書である。著者がキュレーターの経験をもつことも、独自の視点の形成に寄与していた。実は、京都に何度も足を運んでいるが、有名な建築作品がなかったため、出町のエリアをちゃんと歩いたことがなかった。が、本書を読んで、実際に体験したくなり、KYOTOGRAPHIE(京都国際写真祭)の野外展示の会場になったタイミングで商店街を訪問した。なるほど、本書に登場する鰹節店や出町座など、魅力的な街である。もちろん、学生の比率が圧倒的に大きい京都だからこそ可能な側面があり、どこの地方都市でも簡単に真似できないかもしれない。が、これは都市文化を考えるうえで、貴重なフィールドワークだろう。したがって、技芸が響きあうバザールワールド賞と命名した。
 ほかに筆者が候補として挙げたのは、以下の本だった。『まちは言葉でできている』に加え、飯田一史さんの『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか  知られざる戦後書店抗争史』、伊藤将人さんの『移動と階級』、そして村田あやこ編著『緑をみる人』である。近年、東京でも大型の書店が減っていることが話題になっているが、まさに書店は都市文化の担い手だった。『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』は、膨大なデータと歴史の分析をもとに、ネット通販が登場する以前から、昔から町の書店が厳しい状況=制度のもとに置かれ、いかなる新規参入や栄枯盛衰があったかを論じる。『移動と階級』は、J.アーリのモビリティーズ・スタディーズを展開し、日本における「移動格差」の実態を分析しながら、その解消に向けた方策を提示する。コロナ禍が、移動の自由を制限し、移動の外注、地方移住、テレワークなどを引きおこす特殊な事態だったことも考察していた。そして『緑をみる人』は、都市の隙間に繁茂する植物に注目し、世界各地の事例を紹介する。これは今回、そんな着眼点があうのか!と、もっとも驚いた都市へのまなざしを教えてくれた本だった。
 次回も、様々な本に出会えることを楽しみにしている。

審査員 大山顕(写真家・評論家)

高校2年生の夏に偶然耳にしていっぺんでとりこになり、現在に至るまで、ぼくはパット・メセニーのファンである。ジャズ界のレジェンド的ギタリストだ。どれぐらいファンかというと、大学のジャズ研でコピーバンドに参加したぐらいだ。いまこの文章も彼の演奏を聴きながら書いている。
 自ら率いるバンドだけでなく様々な一流ミュージシャンとセッションを重ねてきた彼が、突如、機械と一緒に演奏を始めたことがある。2010年に発表した『オーケストリオン』。これは、ドラム、ベース、ピアノ、マリンバなどの自動演奏を相手にメセニーだけがひとり生身の人間として競演するというもの。自動演奏と言っても、電子的な自動演奏ではない。機械的なマシン(という言い方は妙だが)が生楽器を叩いたりして「弾く」のだ。「オーケストリオン」という言葉は、このような自動演奏機械を指すものとして、すでに19世紀にあった。これを現代の技術でよみがえらせたのが、パット・メセニーによるこのプロジェクトだった。
 アルバムが発表された2010年に、その日本公演を聴きに行った。舞台上に並べられた、演奏ロボットとでも呼ぶべき機械群が圧巻だった。まるでサーカスのようであった。ちなみにこのときのライブ鑑賞は、当時付き合いたてだった妻とのデートだった。思い出深い。
 この演奏に、たいへん印象深い光景があった。プレイの合間あるいは最中に、彼がしばしばマシンたちに近づき、愛おしそうにそれを眺めるしぐさ。彼の普通のライブ——つまり人間たちだけによる演奏——を何度か見に行ったことがあるが、メンバーにこのような視線を送るのを見たことがなかった。これにぼくははっとした。機械にむけるその感情を、ぼくは知っている。メセニーに教えてあげたかった「それ、日本語で『萌え』って言うんですよ!」と。
 なぜこんな話をしているのか。審査をふり返ってメセニーを聞きながら選評を書いている今、大賞と特別賞を選ぶにあたり、ぼくが審査員としてぼくが最後の手がかりにしたのは、このような無生物に対する「萌え」だったのだ、と気付いたからだ。
 ぼくは20年ほど前に共著で『工場萌え』という本を出している。ゼロ年代に流行し、今はあまり聞かれなくなった「萌え」。消費されきって死語と化したこの言葉をなぜいまさら持ち出すのか。しかも賞の審査にふさわしいワードではないように思える。しかしこの言葉でしか表現できないニュアンスがある。ぼくはいまでも「萌え」は重要な情緒だと考えている。それはこの感情が必ずしも「正しい」ものではない、からだ。

 今回の大賞が『趣都』に決まったのは意外だった。いや、ぼくにとっては「これしかない!」という本である。もちろん連載時から読んでいたし、出版されたらすぐさま買った。景観にとって「悪者」にされがちな電柱・電線と、日本橋の上に架かる首都高。これを擁護し、積極的に愛でるのは、ぼくも長年やってきたこと。要するに内容が完璧にぼく好みなのである。実際、著者の山口晃氏とこの手の話で意気投合したことがある。などと言うと、とんだ贔屓に聞こえるかもしれないが、違う。この作品をノミネートしたのはぼくではない。推薦委員の方々だ(みなさん、ありがとうございました)。そして、最終選考で本作を推したのはぼくだけではない。満場一致ではなかったものの、大半の審査員がこれを推した。むしろ、審査会でぼくは「ほんとうに『趣都』でいいんでしょうか?」と何回も念を押してしまっていた。あまりに自分の好みすぎると、このような場で推しづらい。これはたぶん嫉妬の一種だ。ツンデレである。これも死語か。
 それにしてもまさか他の審査員もこれを推すとは思わなかった(審査員長の五十嵐さんは除く)。まさか、みなさん、実は、電線好き……!? もちろんそんなわけはなく、ほかの審査員の方々は書籍という媒体の総合的な評価としてこれを推していることが議論をする中で見えてきた(その詳細はほかの方の選評に譲ろう)。それを知って、安心した。安心したが、ぼくはぼくなりの、単なる好みを超えたロジックを展開しなければならない。人気投票ではないのだから。

 ノミネートされた他の本もすべて素晴らしいものだった。そのなかで、この『趣都』と、ぼくの審査員特別賞たる「オスカー賞」として選んだ『ごみと暮らしの社会学』がぼくの目に輝いて見えたのはどうしてか。この2冊にかぎっては、主人公がモノであって人間ではない。しかも「悪者」と目されがちなモノたち。これらに「萌え」てしまっているからだ。ぼくとしてはこれら2冊の意趣を「モノの背後にはかならず人の営みがある」というポエムに安易に回収したくない。都市のモノをモノとしてちゃんと見ること。人間を差し置いてモノに「萌え」てしまったことを最大限に評価する。
 そう、『趣都』はもちろんだが、『ごみと暮らしの社会学』にも「ごみ」というものに「萌え」ている様子がありありとうかがえる。なにせ前書きにこうあるのだ。いわゆる「ゴミ問題」としてその厄介さばかりが取り沙汰されるが「私がごみだったら、どうでしょうか。悲しい気持ちになるかもしれません。違う側面ももっとあるんだと主張したいのではないかと思うのです」と。
 ……などというと、『ごみと暮らしの社会学』がマニアックな嗜好本のように聞こえるかもしれないが、資料分析のみならず現地に脚を運び、「ゴミ屋敷」の主や関係者へのインタビューまで行っている、たいへん硬派な研究なのである。すばらしい。単に「萌える」だけならだれでもできる(ぼくにもできた)。それをしっかりと理論立てて、おもしろく読ませる文章/画で書籍というパッケージにする。それはなかなかできることではない。
 そういえば、ぼくは子供の頃、不意に使い終わった綿棒を捨てられなくなったことがあった。ほんのちょっとだけ人間に使用されて、すぐさまゴミ箱行きになってしまうその小さきものが愛おしく、不憫でたまらなくなったのだ。最後にはその綿棒がいかに尊い存在であるか、を書き綴った手紙を書いて、一緒にしぶしぶ捨てた記憶がある。この本を読んで、あのときのことがフラッシュバックした。

 ここで『ごみと暮らしの社会学』にぼくが贈った「オスカー賞」のネーミングについて説明せねばなるまい。この「オスカー」はアメリカの映画賞「アカデミー賞」の受賞者に贈られるあの像のことではない。子ども向けテレビ教育番組「セサミ・ストリート」の人気キャラクター「オスカー(Oscar the Grouch)」である。彼は同番組に登場するさまざまなマペットの中でもだいぶ個性的な存在だ。
 この全身が緑色の毛に覆われたモンスターは、セサミストリートの道端にある金属製のゴミ箱を住み処とし、「ゴミ」を蒐集し、宝物として大切にしている。彼にとって、ゴミは単なる不要物ではなく、収集し、愛でるためのコレクションなのだ。『ごみと暮らしの社会学』の守護天使のようではないか。
 彼は他の陽気なキャラクターたちと異なり、愛想を振りまくことはない。雨の降るどんよりした天気が大好き。ゴミと不満(Grouch)を愛する、ひねくれ者だけど憎めない存在だ。もちろん『ごみと暮らしの社会学』は「Grouch」な雰囲気で書かれてはいない。前述したように「ごみ」に対する一種の愛情が感じられる筆致である。
 ここで重要なのは、オスカーは「正しく」ないということだ。「都市文化」をどのように定義するのか、というのが本賞選考における大きな課題であった。それは未だ解決されていない。今回記念すべき第1回目のこの賞だが、これが末長く続いていくことで、都市文化とは何なのか、が浮かび上がってくるのだろうと思っている。選考の定義があって賞があるのではなく、受賞作品群が賞を決めていく。その意味では、今回、この2冊によってひとまずぼくのなかで暫定的な回答が得られた。ひどくがさつでうかつな言い草だと承知しつつ、こう言いたい。「正しく」ないことは、都市に許された最大の特徴ではないか、と。都市にしかオスカーは居場所がないだろう。ニューヨークの「ストリート」だからこそ、オスカーのような「正しくなさ」が受け入れられている。
 『趣都』の世間一般の「良識的」な景観観へのアンチテーゼ、『ごみと暮らしの社会学』の「ごみ」を単なる「ゴミ」としては扱わない態度。ぼくにとって、これらの本に記されていることは、オスカーの哲学に通じている。だからぼくはこの2作を推した。

 1985年の映画『セサミ・ストリート・ザ・ムービー:おうちに帰ろう、ビッグバード!』のオープニングはゴミ箱から顔を出して"Grouch Anthem"(不平屋の賛歌)を歌うオスカーの姿から始まる。この歌には、こういう一節がある。

世界の不平屋たちよ、団結せよ!
立ち上がれ、我らが「不平の権利」のために!
太陽の光に、せっかくの雨を台無しにさせるな!

 ぼくとしては『趣都』にも「オスカー賞」を贈りたい。太陽の光に、せっかくの高架の邪魔をさせるな! 太陽の光に、せっかくの電線の邪魔をさせるな! と。山口さんと肩を組んで歌いたいものだ。その時の伴奏は機械たちにお願いしたい。

審査員 小田原のどか(彫刻家、評論家。版元代表)

「高島屋・東神開発都市文化賞」の候補として集められた書籍の一覧表には、推薦委員のみなさんのコメントが付されており、一冊一冊の推薦理由がよく伝わった。すでに本棚にあるものもあれば、本賞の審査がなければ手に取ることはできなかったかもしれない書籍もあった。とくに私が推薦委員をお願いしたのは、個人書店を運営をされるなど、日々、書籍にふれながら、その地域と関わりを持っている方々だ。審査員は本の推薦には関われないが、だからこそ、候補となった書籍に託された思いを受け取り、審査に臨みたいと考えた。

最終審査に際しては、5作まで議論の対象としてよいということで、展覧会図録(『ジャム・セッション』)、エッセイ(『まちは言葉でできている』)、一般書(『写真が語るアイヌの近代』)、学術書(『性/生(SEI)をめぐる闘争』)、マンガ(『趣都』)の5種を挙げた。こうして5つの著作物を候補リストから選び出すなかで、「現代における都市文化を、商業や消費等の観点から独創的な視座のもとに分析し、私たちの社会、そして将来に新たな示唆をもたらすような優れた表現活動を挙げた著作物を顕彰」するという本賞の趣旨を、今一度確認した。

学会や学術機関によるものではなく、「都市文化という概念を問い直す試み」であることを掲げる「高島屋・東神開発都市文化賞」が、いま、発信すべきメッセージとは何か。賞の設立に寄せたコメントでわたしは「不動の権威を付与するためではなく、多様な価値観の交差点となること」を自分自身の指針とする旨、表名している。多様な価値観の交差点となるとは、推薦委員のまなざしと、専門性を異にする審査員のまなざしとを重ね合わせることを意味する。最終選考の場では、審査員のみなさんの発言に、深く考えさせられることになった。

『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着』は、2025年にアーティゾン美術館で開催された沖縄と石巻を起点とする二人展の図録だ。あらゆる価値の決定が東京中心に決められるなかで、東京での展示の機会を「漂着」の過程と捉え、山城は那覇で、志賀は青森で、作品の真の成果が展開されるという大胆不敵さを備えており、日本橋高島屋という東京の中心部で進む本賞を通じて、本展の脱中心の試みを最大限に評価したいと考えた。とはいえ、悩ましいと思っていたのは、展覧会と図録は異なるものであること、展示を見ていない場合、展覧会図録だけを評価の対象とするにあたり、読者を選びすぎるのではないか、という点だ。ほかの審査員からも同様の意見が出たのだが、それらを払拭する的確な擁護が、私にはできなかった。そうしたなかで、木ノ下裕一さんが本書を強く推薦し、特別賞の対象となったことを、とてもありがたく思っている。

福永玄弥『性/生(SEI)をめぐる闘争 台湾と韓国における性的マイノリティの運動と政治』は、学術書に重きを置くということであれば、強く推したいと考えていた。都市論を正面から扱った書物ではないものの、第2部〈解放〉をめぐる闘争では、台湾の公共空間をめぐり、「LGBTフレンドリーな台北」の形成に関する章があり、都市研究の観点からも必読の書だ。また、本賞を、東京を起点とする、東京の都市についての賞とはしたくない、トランスジェンダーへの差別がやまない状況下だからこそ、都市と公共性の権利の主体を多数派に限定せず、「東アジア」の視点から問う優れた著述活動を顕彰したいという強い思いがあった。こうした思いを抱きつつも、前述のように、本賞は学会や学術機関を主体とするものではないこと、推薦者と審査員の実に多種多様な専門性、加えて、学術書を誰しもが読み通せるわけではないということもふまえて、後述の『趣都』の受賞に賛同したのであった。

大坂 拓『写真が語るアイヌの近代 「見せる」「見られる」のはざま』が分析対象とする「アイヌ風俗写真」とは、かつて北海道の土産物として膨大な数が流通した、写真や写真絵葉書だ。北海道土産の商品として流通・消費された「アイヌ風俗写真」は、観光地や興行の場での「見世物」であり、それは「日常生活」「現実の姿」でないとして、まがいものかのように扱われ、研究が進んでこなかった。そうした先行研究に対して本書は、観光業や興行など商業への従事は、近代以降のアイヌ民族の歴史の一側面であり、そうして自らを「見せる」こともまた、確かにアイヌの人びとの「日常」であり「現実」であったと看破する。また、本書の優れた点は、「未開」「野蛮」であると「文明」側から対象化された者たちに向けられたまなざしは、もっぱらそのまなざしを向けた「文明」側の営為を主な関心事としてきたことを浮き彫りにしたことだ。「現代における都市文化を、商業や消費等の観点から独創的な視座のもとに分析し、私たちの社会、そして将来に新たな示唆をもたらす」著作として、「開拓」を経て実現した「現代の都市文化」がいかなる不可視化や痛みの歴史を持っているのか、「商業や消費」の対象とされた人々の現実を知ることができるという観点から、本書に特別賞を贈れたことを、うれしく思っている。

西本千尋『まちは言葉でできている』、山口晃『趣都』は推薦委員からも多くの推薦を集め、文字による書籍をふだんそれほどたくさん手に取らない方にもおすすめできると考えた。『まちは言葉でできている』は、まちづくりの反対、まちこわしが各所で進むなかで、どのように自分たちのまちをつくるか、求めるのか、与えられるのを待つだけではないまちづくりとの関わりを考えることや、「みんな」というロジックのもやもやをときほぐす手掛かりに満ちている。他方、『趣都』は、架空の日本橋を舞台としたマンガであり、「電柱でござる!」から始まるじつに洒脱な作品だ。すでに評価を得ている美術家・山口晃のキャリアにとって新機軸の実験的作品という観点からも、大賞受賞に異論はない。しかしながら、本賞を、東京を起点とする、東京の都市についての賞とはしたくないという思いや、私自身が大切にしている脱帝国の姿勢に照らし、以下のことを付記しておきたい。John Gast が1872年に描いた油彩画《American Progress》や、大英帝国時代の政治家セシル・ローズ(1853〜1902年)のケープタウンからカイロへの電信線と鉄道の建設計画を発表した後に書かれた風刺画などに顕著なように、電線や電柱は、植民者による「開拓」と帝国の拡張という一方的な「文明化」を象徴でもあった。そうした事実が『趣都』という作品の範疇ではないことを否定する意図はまったくない。あくまでも私自身の問題として、ここに記しておく。

https://loc.gov/pictures/resource/ppmsca.09855/

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Punch_Rhodes_Colossus.png

審査員 木ノ下裕一(木ノ下歌舞伎 主宰)

先に申し上げておくと、私自身、山口晃画伯の大のファンで、何を隠そう、本賞の関連イベントであるトークシリーズのゲストにまでお出ましいただいた。(※)
(いやーあの時、はじめてお会いしたのですが、さすがの画伯の話芸にどっぷり酔いまして、酔いつつもさまざま不躾な質問もぶつけてしまいまして、それでも画伯は真摯に答えてくれまして、「嗚呼、役得!とはこのことか」と思いました。)

受賞作である『趣都』も発刊早々に夢中で拝読。その面白さ、熱量の高さ、ちょっとどうかと思うくらいの1コマ1コマの精密な描き込みに圧倒された。
(第八回「日本橋ラプソディ」のラストはちょっと泣いたし)

けれど、本賞の選考会で、私はあえてただ一人『趣都』の受賞を最後まで反対する立場を取った。
(審査会終盤では、審査員5対1に意見が割れ、さながら、いつまでも負けを認めず籠城し続ける片意地な小城主のようであり、それでも根気強く対話と議論を重ねてくださった他の先生方に感謝しています。先生方の鋭い批評、深い考察をお聞きし、私が読み取れていなかった『趣都』の多様な側面を教えていただく中で、大いに得心いたしまして、最後は城を明け渡したわけです)

なぜ、この作品を推さなかったのか。この場を借りて自分なりに少しだけ言葉にしてみたい。

まず、本作を漫画として評価するか、都市論として評価するか、自分の中で踏ん切りがつかなかったという点がある。
たとえば、漫画としてみた場合、贔屓の無茶な願望であることは重々承知の上で「画伯ならもっとできるはず!」という気持ちが残る。展開のさせ方、ギャグの入れ方、コマ割りなど、漫画という手法を逆手にとって、その表現様式にまで揺さぶりをかけるようなものをつい期待してしまう。漫画と絵巻のふたつの表現方法を一枚の絵の中でぶつけることでその根本的な差異をあきらかにした『Over-rap』(2021)という名作があるだけに、漫画でしか表現できないことを、漫画の枠を超えて表現してほしかった(禅問答みたいですみません!)。意地悪な言い方になってしまうが、『すずしろ日記』や絵巻様式でも表現できたものを、今回は漫画に落とし込んでみた……という感じがする。漫画という様式が内容に対して窮屈さを与えている感も否めないし、漫画という様式に従順すぎる気もする。そもそも漫画であること、漫画という様式をあえて選んだ!という根拠がちょっと希薄に思えた。〝ひげセンセと三吉くん〟というわざわざ虚構の存在を主人公に据えている点なども、その虚実皮膜性も含めてうまく使えば、もっと遠くへ飛べたのではないかとも思う。

くしくも本書の帯には「画か、漫画か。」というコピーが添えられているが、(画伯自身がつけたコピーではないにしろ)そんなことを読者にゆだねられても困ってしまう。もちろん、絵画と漫画のあわいをゆくハイブリットな面白さは十分に認めるけれど、同時に、肚をくくって、どちらかに軸足を据えて取り組むからこそ浮かぶ瀬もあるように思われる。〝他者の戦場〟で勝負するということはとどのつまりそういう事のような気もするし、これまで、新聞小説の挿絵や商業製品のデザインや分野のことなる場所での講演会などでも、画伯はそうやって戦ってきたはずだ。

かたや都市論という視点で読んでみると、もう、申し分のない充実した内容だけれど、日本橋にしろ、電柱にしろ、階段にしろ、これまで画伯がたびたび言及してこられたことの〝総ざらい〟であって(思えばそれ自体が素晴らしいのだけど)、ファンとしては若干の食い足りなさが残る。2023年の個展『ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン』における鑑賞者の〝みる〟という行為自体に疑問を投げかけるような鋭利さで、もう一度新しく都市を見つめ直すこともできたのかもしれない。画伯にとって切実な「やむに止まれぬ都市論」が読みたかったのかもしれない。
また、〝都市VS山口晃〟ということでいうと、たとえば「『街歩き旅ノ介 道後温泉の巻』山口晃 道後アート2016」の立体作品や『道後百景-道後エトランゼマップ』など、実際の街に絵筆一本を携えて殴り込み、格闘と摩擦を繰り返しながら、流血しながらそれでも輝くような作品を残した雄姿が忘れられない。それらの戦歴に対してではなく、『趣都』の一作を取り出して「都市文化」と名の付く賞を冠してしまうのは、画伯のキャリアに対して却って失礼なのではないかとも(これは、皮肉でも嫌味でもなく、心底!)思った。
山口晃は〝紙の上だけで都市を考えているアーティストじゃないんだぞ〟と。

あと、これは画伯には、なんの関係もないことなのだが(だったら書くなよ!)、「都市文化」を謳う賞の選考会を、江戸以来の日本中心地点である日本橋で、それも屈指の老舗デパートである高島屋の、空調のきいた貴賓室(窓からは銀座の街が見える!)で、美味しいお弁当(しかも「今半」の三重弁当!)をいただいたあとで、行い、その第一回目の受賞者に、すでに名実ともに評価が高く、日本の美術界を牽引する〝山口晃〟を選ぶ……「都市文化」ってそれでいいんだっけ?という、ちょっと何か悪いことをしているかのような、居心地の悪さのようなものも感じた。
(しつこいようだがこれは)画伯や『趣都』の問題ではない。今、目の前に並べられ、自分が身を置いている〝都市〟が、一色(ひといろ)なのが気になったのかもしれない。もろん、地方出身者で、京都在住者で、現在、地方都市の公共劇場の芸術監督を務めている私の僻みである可能性も高い。

そういう意味で、審査員の個人賞が設けられ、本賞に何色もの都市が加わったことが嬉しい。
私は『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着』を選ばせていただいた。2025年に開催された美術展の図録で、私は本展を未見だったが、災害や戦争などの都市の記憶をテーマに、東北と沖縄を幾重にも接続する(というか鑑賞者の頭の中で接続させる)仕掛けが見事で、そのダイナミックさに痺れた。
都市における〝中央〟と〝周辺〟という捉え方自体を問い直す力に満ち、放っておけば風化してしまう〝声〟を、丁寧に掬い取ろうとする手つきも素晴らしい。

図録としての役割だけでなく、一冊の書物としてもよく練られた構成で、キュレーターや編集者の苦心も見える。だから、おこがましいようだけれど、本個人賞は、山城さん、志賀さんはもとより、普段は縁の下で支え、あまり日の目を見ない〝スタッフ〟にも捧げるものとしたい。

思えば、〝都市〟は、名もない人たち、大声を出せない人たちによって作られているものでもあるのだ。

(※)2025年7月27日「高島屋・東神開発都市文化賞トークシリーズ ―なぜ、山口晃は摩擦を引き受けるのか ―山口晃 × 木ノ下裕一」のこと。
【山口晃×木ノ下裕一:歌合せは、いまでいうとラップに近い】 #山口晃 #木ノ下裕一 #ラップ #美術 #古典 #鳥獣戯画 #ラッパー #タヌキ #漫画 #Shorts #歴史 #アート #イラスト

審査員 瀧波ユカリ(漫画家)

『趣都』を手に取った時、私は「まあ、ね」と思った。
日本橋高島屋の旧貴賓室、ずらりと並ぶ「都市文化賞」の候補作。その中の一冊として、これほど「ぴったり」な本はなかった。この「ぴったり」は、あまりいい意味ではない。定番というか、鉄板というか。「都」のつくタイトルからしてど真ん中すぎるし、カバーには「この本は日本の都市文化を描いてますよ」と言わんばかりに建築物の絵がひしめいているし、目次には「日本橋」の文字が六つも出てくるし。なんたって著者は山口晃だ。日本橋高島屋に直結する日本橋駅構内には山口の作品がドーンと飾ってある。ゆかりがありすぎる。全てがここにありすぎる。むしろ山口が審査員じゃないのが不思議なくらいだ。
「まあ、この本はそりゃ候補に入るよ、ね」の「まあ、ね」の顔のまま、ページを繰る。「先生」が少年「三吉」に都市文化の見方を教える学習漫画のような形式だ。まずは電柱、なるほどね。これをニッチとするかオーソドックスと取るか。しかし絵うまいな。あ、大正時代かと思いきや変な形の路電が出てきたぞ、独自の世界線か。悪くないね。しかしほんと絵うまいな。そしてこだわり強いな。ちょっとこれは漫画やってみました的なチャラいノリではない。ガチ。困りますね、こういう技巧とユーモアを併せ持った他分野のプロにシマを荒らされたら、こちとら面目丸潰れですよ。言葉選びもうまいし。コマ割りは大胆、構図はさすが自由自在だ。オチまでつけて。全てがここにありすぎるじゃん。こうした私のちょけた心の声は、第一回を読み終わったあたりで途切れている。なぜなら、この『趣都』の世界に没入してしまったからだ。
『趣都』はその紙幅の多くを「日本橋」に割く。「美しい日本橋」の上に首都高がかかる景観へのネガティブイメージを、言葉で、絵で、切り崩していく。神々の遊びのような画力で都市を組み上げ、紙の上に小さく大きく、上から下から、あっさりにもこってりにも、自在に展開する。その往復ビンタのようなエネルギーを食らううちに、自分の中にあった「日本橋」の捉え方が、ビシバシと変わっていく。
再びもとの世界に戻ってきた時、私は「あーあ」と言いながらうすら笑いを浮かべるしかなかった。
迎えた選考会では、選考委員6人のうち私を含む5人が『趣都』を最終候補に含めていた。ひとりずつ選考理由を話す際、その5人ともが『趣都』に触れる時には「あーあ」のうすら笑いを浮かべていた(ように見えた)。定番で、鉄板で、ど真ん中で、ゆかりがありすぎる。なのに、選んでしまった。あーあ。
それぞれの専門分野の知見を活かした「推す理由」も、唯一『趣都』を候補に上げなかった木ノ下氏による「推せない理由」も非常に面白く、議論は白熱した。私は木ノ下氏の次に話す番だったためなんとなく反論ターンになり、「『趣都』は都市文化賞ど真ん中すぎる、それはそう。でもこういう体裁の漫画は漫画賞のエアポケットに落ちがちで、だいたい受賞を逃す。我々が推さずしてどうする」とか「一部のコマ割りの読みにくさや、全体としてのまとまりに欠けるなどの弱点はある。が、弱点を凌駕する魅力にこそ価値を見出すのが漫画というメディアであり、『趣都』にはそれがある」とか、褒めているようないないようなコメントをまくしたてた。
でも、そうなのだ。『趣都』は、弱点を補ってあまりあるパッションと魅力に溢れている。ぜひあなたにも、没入してもらいたい。往復ビンタの洗礼を浴びて、うすら笑いを浮かべてほしい。
『趣都』が都市文化の捉え方を変える往復ビンタなら、「都市と身体賞」に選んだ小川公代の『ゆっくり歩く』は都市と身体の押しくらまんじゅうだ。小川によって語られるパーキンソン病の母との思い出や、母に語って聞かせるいくつもの物語の中には、ある都市でだれかに起きたハプニングと、その身体に起きた反応がとりどりに満ち溢れている。
サンマルコ広場で流れたボレロが小川の胸を締め付け、ケンブリッジのホテルの壁に書かれた数式が母の具合を悪くし、不思議の国でアリスは自分の涙の池に落ち、都内のせわしないレストランを諦めた母子は公園でお弁当を食べて歓喜する。都市は身体に冷たくも温かくもあり、酷でもあり優しくもあり、そのたびごとに身体は反応し、共鳴する。タイトルとはうらはらに、小川は読者の手を引きダイナミックに時間と空間を飛び回る。どうかはぐれずについていき、一緒に泣き笑いしてほしい。
都市や境界の破壊が続き世界がひどく揺らぐ中、今いるここ、または今ここではないどこかに立ち、歩き、ぐるりと見渡すこと。そうして都市と、人と繋がり、世界を手放さないでいること。その大切さを改めて感じることのできた選考期間だった。最後に、受賞された皆様に心からの祝福と、素晴らしい作品を生み出していただいたことへの深い感謝を伝え、私の選評の結びとしたい。

審査員 富永京子(社会学)

高島屋・東神開発都市文化賞は、高島屋・東神開発という、それぞれ200年、70年近くもの歴史の中で都市文化を市民と共に形成してきた企業が新しい都市文化を刻むための第一歩の試みである。僭越を承知で申し上げるならば、「古い」企業の「新しい」試みということになるだろう。
 「アップデート」や「イノベーション」といった言葉が喧しく飛び交う社会になり、年を重ねた人々の保守的な振る舞いや、伝統的な組織が嫌われる時代になって久しい。しかし、社会も人間も経験を重ね年をとる。いつまでも誰もが若く、挑戦者であり非権威でいられるわけではない。年齢と経験を重ねた人間や組織にとってこそ、変革や挑戦は困難を極めることもあるだろう。積み重ねた伝統や蓄積、成功体験が新しい挑戦を阻むことも想像できる。このように成熟した社会と人間における「新しさ」を今一度検討する上で、本賞そのものがきわめて示唆深い試みだと考えた。
 百貨店という、老舗であり、権威であるセクターにとっての「新しさ」とは何か。何をすれば「新しい」都市文化の形成の一助となることにつながるのか。おそらくここで掲げられている「新しさ」を模索することが、少子高齢化、格差の拡大、コミュニティの解体といった課題を抱える、成熟した日本社会の都市文化とその刷新を考えることにもつながると考えた。このようなセクターによる贈賞だからこそ、瞬間風速的な拡散や即効的な有用性ばかりが評価される昨今、確固たる知的蓄積に裏打ちされつつも新たな問いを提示する書物を正当に評価することも可能になる。長期的な都市文化の形成を事業の核としてきた企業だからこそ、短期的な話題性ではなく時代を超えて残る文化的価値を見極める眼を持ちうると想像されるためだ。だからこそ、長期的な視点での知的貢献もまた、本賞の重要な役割であると考え、選考にあたって重視した。
 このような経緯から、建築史や都市史といった知的伝統の中にありつつも、現代社会において不可視化された都市の価値を発見し、スクラップ&ビルドありきの建築観や、技術決定論・段階発展論的建築史観に対する問題意識が鋭く提示された『建築のラグジュアリー』(加藤耕一著)をきわめて高く評価した。また、『奔放な生、美しい実験』(サイディヤ・ハートマン著、榎本空訳、ハーン小路恭子翻訳協力・解説)も人文社会科学の学術書でありながら、都市において不可視化された黒人女性たちの自律的な生と性の軌跡を生き生きと描き切っている。両書に共通するのは、都市において見過ごされてきた存在や価値への着目である。いずれも都市文化研究の伝統と蓄積を踏まえつつその見方を更新する学術書であり、長く読み継がれてほしい書である。
 また『新版 日本のまちで屋台が踊る』『ロッコク・キッチン』も興味深かった。『日本のまちで屋台が踊る』は、屋台という古くて新しい素材から路上空間の自由や「あそび」を瑞々しく捉え、『ロッコク・キッチン』は震災という、いくら語っても語り尽くすことのできない主題を「食」と「移動」というオルタナティブな日常に即した目線から捉えることで、その淡々とした抑制的な目線が、かえって震災という主題の重さを浮かび上がらせ静かな余韻を残す。いずれも、クリエイティブな切り口でありながらも、社会に透徹した眼差しを持ち、時に批判的な目線を示す好著である。
 そして大賞、山口晃『趣都』(講談社)である。
 すでに高い評価を確立した現代日本画家・山口晃氏の作品に賞を授与することには、選考会でもかなり多くの議論があった。審査員全員が満場一致で名前を挙げた作品であり、漫画としても文化的試みとしてもその卓越性に異論はない。しかし、高島屋・東神開発の提示する新たな都市文化の賞として妥当なのか、すでに権威であるものをさらに権威づけるだけの賞になりはしないか、と。
 しかし、権威ある立場・確立された地位にあるからこそ、挑戦は未熟な時代よりも手痛い失敗と隣り合わせになりうる。それでも踏み出すことは、より大きな勇気を要することが想像できる。成熟し、保守化した社会の都市文化を考えるとき、むしろこのような、地位が確立されたと見なされる傾向にある作家や著者の「挑戦」をこそ高く評価すべきだと考えた。漫画という媒体を有効に用いた、過去と現代が重なり合う都市空間の描写や、現実と想像のあわいをするりと抜けるような物語、作品の中に織り込まれた現代都市文化への見解など、この作品は保守化・硬直化した都市文化言説に対しても、そしておそらくは権威となった著者自身に対しても挑戦と革新に満ちている。このような点から、『趣都』を大賞とするにふさわしい作品とした。

選考過程と
審査員コメント

  • share
  • LINE
  • X

2026年5月18日(月)に行われた最終選考の様子と審査員のコメントをご覧いただけます。

最終選考選出作

  • share
  • LINE
  • X

高島屋・東神開発都市文化賞2026の最終選考には、以下18作品がノミネートされました。

有馬恵子
『京都出町のエスノグラフィ ミセノマの商世界』(青土社, 2025)

飯田一史
『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか 知られざる戦後書店抗争史』(平凡社, 2025)

石川初
『PARK STUDIES 公園の可能性』(鹿島出版会, 2025)

伊藤将人
『移動と階級』(講談社, 2025)

内海潤也, 北村毅, 佐喜真彩, 志賀理江子, 東琢磨(著), シェリル・シルバーマン, クリストファー・スティヴンズ, パメラ・ミキ(訳)
『ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着』
(公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館, 2025)

梅川由紀
『ごみと暮らしの社会学 モノとごみの境界を歩く』(青弓社, 2025)

大坂拓
『写真が語るアイヌの近代 「見せる」「見られる」のはざま』(新泉社, 2025)

小川公代
『ゆっくり歩く』(医学書院, 2025)

加藤耕一
『建築のラグジュアリー 物質と構築がつむぐ建築史』(東京大学出版会, 2025)

川内有緒
『ロッコク・キッチン』(講談社, 2025)

小林美香
『その<男らしさ>はどこからきたの?』(朝日新聞出版, 2025)

サイディヤ・ハートマン(著), 榎本空(訳), ハーン小路恭子(翻訳協力・解説)
『奔放な生、うつくしい実験
まつろわぬ黒い女たち、クィアでラディカルなものたちの親密な歴史』(勁草書房, 2025)

関口涼子
『匂いに呼ばれて』(講談社, 2025)

今村謙人, モリテツヤ, 鈴木有美, 神条昭太郎, 孫大輔, 小川さやか, 南後由和, 鞍田崇, 石榑督和, 栗原康, 阿部航太, 笹尾和宏
『日本のまちで屋台が踊る(新版)』(学芸出版社, 2025)

西本千尋
『まちは言葉でできている』(柏書房, 2025)

福永玄弥
『性/生をめぐる闘争 台湾と韓国における性的マイノリティの運動と政治』(明石書店, 2025)

村田あやこ
『緑をみる人』(雷鳥社, 2025)

山口晃
『趣都』(講談社, 2025)

03. 記念イベント・フェア

都市文化賞2026
受賞作発表記念 ブックフェア

  • share
  • LINE
  • X

受賞作発表を記念し、2026年6月13日(土)~7月31日(金)まで丸善日本橋店(東京都中央区日本橋2丁目3-10)2Fエスカレーター横イベントスペースにて、ブックフェアを開催します。
大賞、その他特別賞各賞、また本年度のノミネート作品約100点をご紹介するとともに、本賞審査員6名が選ぶ「都市文化」にかかる書籍約180作品も棚に並びます。「都市文化」とは何か、この問いに関心をお寄せのみなさま、ぜひこの機会にお立ち寄りください。
*ブックリストも配布予定です

限定ブックカバー

本賞の発表を記念し、華やかな限定ブックカバーを作成いたしました。ブックフェア開始の6月13日(土)より、丸善日本橋店にて書籍(文庫、新書、単行本)をご購入いただいた方には「限定ブックカバー」(文庫、新書、単行本)をおかけいたします。数に限りがございますので、あらかじめご了承ください。

トークイベント

大賞受賞作『趣都』の著者山口晃さんを招いたトークイベントを予定しています。詳細が決定次第、Peatixにて告知・募集を開始します(要事前申込)。

⚫大賞『趣都』受賞記念トーク
山口晃(画家) × 五十嵐太郎(本賞審査員・建築批評) × 瀧波ユカリ(本賞審査員・漫画家)︎

大賞『趣都』受賞記念トーク

日時:7月19日(日) 18〜20時
会場:高島屋グループ本社ビル8階ホール
定員:150名
オンライン配信(アーカイブ視聴つき)あり
参加料金:1000円

⚫大賞『趣都』受賞記念スピンオフ企画「架空(ガクウ)*の話」
山口晃(画家) × 大山顕(本賞審査員・写真家・評論家) × 石山蓮華(電線愛好家)

*空中に張られた電線のことを専門用語で「架空(ガクウ)線」と呼ぶ

大賞『趣都』スピンオフ企画 架空の話

日時:8月8日(土)14〜16時
会場:高島屋グループ本社ビル8階ホール
定員:150名
オンライン配信(アーカイブ視聴つき)あり
参加料金:1000円

※予告なく変更となる場合がありますが、あらかじめご了承ください。

限定小冊子

7月上旬(予定)より、限定小冊子の配布を予定しています。受賞作や審査員選評の他、一次選考・最終選考にノミネートされた作品、ブックフェアでご紹介した選書リストをまとめて掲載した贅沢な小冊子です。
ブックフェア、また本賞にまつわるトークイベント会場で配布予定ですので、ぜひご入手ください。
※数に限りがございますので、あらかじめご了承ください。