大人の読書感想文 BOOK REPORT for adult

「あの人に読んでもらいたい1冊」としてブックディレクター幅允孝さんが
『居心地のよい場所』の選書から1冊をセレクト。
ご指名を受けたお相手が綴った感想文をお届けします。
1冊の読書の感想をきっかけに広がる新しいライフスタイルや考え方をお楽しみください。
今回、歌手、声優など幅広く活躍する坂本真綾さんに幅さんが選んだ書籍は、
本と本の置かれている環境を主題にした潮田登久子さんの写真集『本の景色』です。

『本の景色』 潮田登久子
ウシマオダ/2017年

 10年前、20代最後の記念に40日間ヨーロッパをひとり旅した。いちばん鮮烈な記憶は、チェコのプラハにあるストラホフ修道院の図書室。フレスコ画の天井、何世紀も丁寧に守られてきた書物と、その匂い、静寂。何があれほど胸を打ち、熱いものが込み上げてきたのか、ずっと考えていた。でも「ビブリオテカ 本の景色」のページをめくるうちに、私を捉えたものの正体が少し見えた気がする。
 写真家・潮田登久子さんの作品集。書庫や書斎、古書店、時代も国も様々な本の景色が繰り広げられる。その最後を締めくくる1枚。まるで溶岩のように荒々しく、散りかけた花びらのように儚くも見えるその物体は、マカオのシロアリ駆除業者の店頭に飾られていたもの。無残に食い荒らされた本の塊。シロアリの恐ろしさを伝えるために置かれたという。どういうわけか不意にあのプラハの図書室で感じた慈しみのような感情が蘇ってきた。戦争や災害も乗り越えうやうやしく保護された本たちと、見せしめのように街角に置かれたこの本が、似ている。不気味で美しい、息づく姿。
 形あるものはみんな時の中で変化し、いつか朽ちていく。まっさらだった本に手垢がつき、日に焼け、黄ばみ、折れ、ほつれて、誰かが挟んだしおりや、解読できない走り書きも。すべての痕跡に物語がある。本に触れたすべての人の気配が刻まれているのだ。その変貌をこんなにも美しいと感じることができる私が、どうして自分自身に起こる変化を怖いと思うのだろう。失うこと、老いることを恐れるのだろう。
 29歳でなんとなく人生の岐路に立って旅に出ちゃったあの日。40歳になり新しい価値観が芽生えている現在。漠然とした不安にかられそうなとき、本の無言の佇まいが私に「進め」と促す。時は止まらない。まっさらだった私にどんどん刻まれていく痕跡を慈しみたい。与えられた時間、私の生命に宿る不気味さも美しさも、余すところなく使い切るのだ。

歌手・声優
坂本真綾
Maaya Sakamoto
1996年にシングル「約束はいらない」でデビュー。瑞々しい歌声に定評があり、日本のみならず世界中のファンから支持をうける。
歌手、声優、女優、作詞家、エッセイ執筆、ラジオパーソナリティなど、多方面で活躍を続け、2020年にはCDデビュー25周年を迎えた。